先天性心疾患持ちミドサーの急性骨髄性白血病治療⑦ 退院〜復職編
先天性心疾患持ちミドサーの急性骨髄性白血病治療記です。
前回のエントリはこちら。
これまでの経過
一旦ここまでの経緯をざっと書いておきたい。
2021年6月:白血病診断・入院・休職・寛解導入療法
2021年7月:地固め療法1クール目
2021年9月:地固め療法2クール目
2021年10月:地固め療法3クール目
2021年12月:地固め療法4クール目
2022年1月:臍帯血移植
2022年3月:退院
休職について
便宜上休職と書いているが、私の勤務先は勤続10年を超える社員には半年間の「病気休暇」という有給休暇が適用される。
正式な休職に突入するのはその病気休暇の期間が過ぎてからだ。
病気休暇中はフルで給与が支払われるし、休職中も1年間は給与の8割が自動で支払われる。
通算1年半の間は傷病手当金の申請すら不要という素晴らしい制度だ。
この制度と激太な健保、そしてがん保険のおかげで金銭面の心配なく治療を受けることが出来た。
色々と揶揄されがちなJTCだが、大企業の体力はこういうところに現れるとつくづく思う。
※病気休暇の期間や休職中の給与支払いについては勤続年数や疾患の種類によって異なるため、あくまでも私のケースについて書いています
これまで会社に提出した診断書は以下の通り。
2021年6月:最低半年間の療養を要する・ただし治療内容により延長の可能性あり
2021年12月:3月末まで療養を要する(ここから休職期間)
2022年3月:6月末まで療養を要する
本来なら診断書の原本を会社に郵送したり持参する必要があると思うし、夫に頼んで郵送することは可能だったが、会社が柔軟に対応してくれ、iPhoneで診断書の写真を撮って上司に送るだけで良かった。
上司や同僚は折に触れて連絡をくれたし、私が3月初旬に上司へ「3月中に退院出来そうです」と連絡するとすぐに病名を知る一部の管理職の方達に「嬉しいニュースです!」と知らせてくれた。
退院もしないうちから「夏には復職したいです!」と伝え、上司から「まずは生活出来るようになることを優先するように」と冷静なコメントを受け取ったりもした。
4月以降も休職を延長するための診断書を3月中に主治医に書いてもらう必要があったため、その延長をいつまでにするかの相談も上司とした。
私は「夏に復職する」という根拠のない気合いだけはおそろしく持っていたので、一旦は6月末までの延長にした。
退院日にもすぐ上司に退院を報告し、上司はまた病名を知る一部の管理職の方々にお知らせをしてくれた。
そのお知らせに対して皆様「素晴らしい!」「会えることを楽しみに生きていきます」と反応してくださった。
素晴らしいのはこの職場なんである。
退院後の自宅療養
退院して最初の1週間でやったことは、入院中にお見舞いをくださった方々に快気祝いを送ることだった。
社会復帰をしていないので厳密には快気祝いにはまだ早かったが、9ヶ月も入院していたので退院出来ただけで御の字だ!とひたすらデパートの通販サイトをポチポチした。
退院してからしばらくは隔週で通院があった。
なけなしの体力を移植でごっそり奪われ、免疫力も低く、コロナも怖かったためタクシーで往復していた。
免疫抑制剤を服用している間は家の掃除を夫にしてもらうようにと主治医から言われていたし、包丁や火で怪我をしても良くないので、全ての家事を夫がしてくれた。
私は家でひたすらゴロゴロしたり漫画を読んだりゲームをして過ごした。
昼間どれだけ寝ても夜もしっかり眠れると主治医に言うと、「普通の人は3ヶ月かかるところをあなたは2ヶ月で退院したのだからまだ体力の回復には時間がかかると思う」「それだけ日常生活には体力を使うということだよ」と言われた。
Day100を過ぎたあたりで白血球とヘモグロビンの値が正常値まで伸びて通院の頻度が3週間毎に減り、5月に入って気候も良くなってきたことから夫と近所を散歩したりするようになったが、はじめのうちは1日で3,000歩歩ければ良いほうだった。
また、移植後は体力低下や疲れが吐き気として現れるようになり、退院してからもしばらくの間は何かにつけて吐いていた。
夫の吐瀉物処理レベルは格段に上がった。
急性GVHD以降は見た目上は肌に何の問題もなかったが、シャワーを浴びたりして血行が良くなると全身が痒くなる日が続いた。
移植前には一度も罹ったことのない口唇ヘルペスで病院を突発的に受診したりもしており、順調な経過とはいえ一筋縄ではいかなかった。
フィジカルとメンタルの天秤
一般的には、退院してから半年〜1年間で復職する方が多いようである。
しかし私は、キャリアのステップアップが目の前で絶たれたこと、上司や同僚と非常に仲が良かったこと、何より働いていない状態に限界を覚えたこともあり、もっと早く復職したいという希望を持っていた。
白血病になる前は「ニートになりたい」などと良く口にしていたが、いざ入院して3ヶ月も経つと仕事が恋しくてたまらなくなり、自分が意外と仕事好きだったことが分かってびっくりした。
主治医は「肉体労働の人だと半年くらいはデスクワークに配置転換してもらうようにお願いすることが多いが、元からデスクワークなら体力が許したタイミングで復職して問題ない」と言ってくれていた。
退院してからは上司が同僚と飲みに行く時に現地からビデオ通話をつないでくれて久しぶりに同僚と会話を交わせたりしており、この人達のところへ戻りたいという気持ちがどんどん強くなった。
上司は
「焦らずにゆっくり体を治してから戻っておいで」
と言ってくれており、その言葉は非常にありがたかったが、抗体が全てリセットされていることも含めて移植をした体が「治る」には年単位で時間がかかるので、どのみち「治る」前の復職は必至と考えた。
また、4月に夫が復職して一人で過ごす時間が増えたことで「Day100を超えたあと重篤な慢性GVHDが出てきたらどうしよう」「再発したらどうしよう」という、考えても仕方のない悪い想像が常に頭を占めるようになった。
人間は暇だとろくなことを考えないという典型だ。
そんなに暇なら体力作りも兼ねて家事をすれば良いのだが、家事はしたくないのである。
一方で、移植前と比べて体力が落ちすぎていること、体調が安定しない中で復職した場合に急に体調を崩して仕事を休むことで有給休暇が底を尽きてしまうのではという懸念など、復職にあたって不安材料が山程あったのも事実だった。
復職すべきかすべきでないか、いつなら復職してもいいのか、一人でぐるぐる悩んでいた。
同僚×同病
そんな5月下旬のある日、我が目を疑うことが起きた。
なんとロンドン赴任中に白血病に罹り、治療を受けて復職した人が社内におり、その体験談が社内報に掲載されていたのである。
私の勤務先はグループ全体で何十万人も社員がいる巨大な組織なので、同時期に白血病になっている人がグループ内に1人くらいはいるだろうなぁ、と漠然と考えることはあったが、ドンピシャで同じ社内にいるとは思っていなかった。
私の一つ下の年次のその彼は平野さんといい、2021年の5月に発症、そのままロンドンで入院し12月に移植を受け同月内に退院(日本ではありえない早さだ)、翌3月からロンドンで復職したというすさまじい話であった。
発症も移植も私と1ヶ月しか違わない。
平野さんの社内報への反響の大きさはすごかった。
それまで有名人が罹るニュースを見るだけで自分にとって遠い世界の出来事だった白血病が非常に身近なものだと分かったことへの衝撃が大きかったし、元から平野さんと知り合いだった社員は「あの平野くんがそんなことになっていたなんて」とびっくりしたのだ。
泣きながら社内報を読んだ。
平野さんと私に共通していたのは、治療中に職場の支援によって支えられていたことだった。
支援というのは病気による職や金銭面の心配がなくなることだけではなく、精神的および社会的な意味合いを含んでいることが非常に大きい。
「この人達とまた一緒に働きたい」「支えてくれた同僚や職場に恩返しをしていきたい」という気持ちが治療におけるモチベーションの大きな部分を占めるということだ。
同じ時期に同じ病気を乗り越えた同年代の仲間がこんなに身近にいるのは運命だと思った。
平野さんが退院からわずか3ヶ月で復職していることも大きな励みになり、「よし、復職だ!」という気持ちがより大きくなった。
すぐに上司に連絡し、平野さんの連絡先を入手してもらいコンタクトを取った。
彼もまさかこんな身近なところに同時期に同病を経験した人間がいるとは夢にも思っていなかったようで、とても驚いたが同志がいて嬉しいという旨の返信をすぐにくれた。
社内に共通の知り合いが多数いることも分かってどんどん打ち解けていけたし、経験者にしか分からないあるある話が出来たのも嬉しかった。
イギリスの治療の日本との違いを知ることが出来たのも面白かった。
平野さんが復職したのは「退院後の生活が退屈すぎてストレスだったから」「日常に戻りたかったから」だと教えてくれた。
そのようなモチベーションで復職していいんだよね、と大きく背中を押された気がした。
復職に向けたステップ
ステップについて考える
復職にあたって平野さんが上司や人事に出したという「今後の経過と復職計画案」についてのペーパーを共有してくれたため、私も同様のものを作って上司に出すことにした。
今まで上司にはバラバラと連絡をしていたが、体系だてて経過を見てもらうことで理解も深まるし、私にとってもペーパーを作ることは社会復帰に向けた訓練になる。
私には日本だけではなくアメリカにもレポートライン上の上司がいた。
その上司にも見てもらうためにペーパーの英訳もした。
勤務形態について考える
平野さんが取った復職へのステップは以下の通りだ。
週3→週4→週5(通院日除く)と勤務日を少しずつ増やしていく。
週3勤務や週4勤務の制度はないため勤務しない日は有休を充てる。時短勤務はせずフルタイム復帰。
100%リモートワーク。
平野さんの経験も踏まえた上で、私は以下のように復職したいという意向を上司に伝えた。
有休を取っておきたいため週5勤務。
時短勤務から始める。
午前中は吐き気を催すことが多いため遅い時間帯の勤務にしたい。
100%リモートワーク。
元々コロナ禍を機に職場は100%リモートワークを実現していた。
仕事でやり取りする相手の大半は海外だし、同僚も同様の働き方をしているため、出社しても誰もいないし出社する意味もなかった。
上司には「精神衛生のために復職させて欲しい」「体がしんどくなったらベッドに寝ながらやらせていただきますから」などと無茶苦茶なことを言い、現行の診断書に記載の休職期間が切れる7月から復職することを合意してもらった。
復職の診断書と、復職後の勤務に関する制度
上司が人事や労務と確認してくれ、診断書に「復職可能であること」「勤務軽減を要すること」を明記してもらう必要があると教えてくれた。
復職に向けた社内手続きには3〜4週間かかるようなので、5月末の診察で上記の診断書を作成してもらった。
平野さんは白血病について非常に良く勉強されている方で、何度かやりとりをしているうちに私も感化されて主治医への質問リストを作るようになった。
そのリストを持って診察に行くと、主治医が苦笑いしながら「君、もう復職した方がいいよ」と言ってきた。
病気療養後に復職する場合は育児中の社員に適用される時短勤務とは別の勤務軽減という制度が適用され、厳密には時短勤務ではないということだった。
また、職場はフルフレックスだったが勤務軽減中はフレックスではなく勤務時間を固定するため、その日の体調によって勤務時間を変えることは出来ない。
これはあくまでも私の勤務先の制度なので、他社では違う制度があるのではないかと思う。
産業医面談
6月の上旬に産業医面談がセットされ、まずは4時間勤務(+昼休み1時間)から様子を見ましょう、ということになった。
勤務軽減の場合、
4時間勤務→6時間勤務→フルタイム残業なし→フレックス
というステップを取るのが一般的なようだった。
フレックスなしのフルタイムは9時〜17時半が定時で、4時間勤務となる場合は10〜15時、6時間勤務の場合は10時〜17時を勤務時間とするようだ。
また、産業医からは
復職を意識した生活リズムを心がけること
読書やパソコン作業といった頭脳労働に慣れること
の2点を意識して過ごすよう指示があった。
6月の下旬に2回目の産業医面談があった。
初回は産業医、保健師と私の3名だったが、2回目は産業医、保健師、上司と私の4名である。
午前中は体調が良くなく、午後から体調が上向くという話をし、イレギュラーだが11時〜16時の4時間勤務から始めることで合意をした。
助走をつける
上司が私のメンタルを気にかけてくれ、「気晴らしになるならWeeklyで雑談の1on1をしようか」「Weeklyのチームmtgに混ざってみる?」と色々な提案をしてくれた。
私が一人で勝手に悪い想像をして落ち込むのは私個人の問題なのに、上司がとことん付き合ってくれることが本当にありがたく、喜んでそれらの提案を受けた。
(ここまで書いていて上司がいい人すぎて泣けてきた。)
6月になると上司と1on1で雑談や休職中にあった出来事のキャッチアップをしたり、チームmtgを“聴講”して同僚の業務内容のキャッチアップを始めた。
また、アメリカにいるレポートライン上の上司ともCallをして、まずは短い勤務時間から始めること、以前日本時間10時(現地時間19時or20時)に行っていたWeekly mtgを11時からにしてもらうことを決めた。
アメリカの上司も「自分はFlexibleなのでMayoの好きな時間に働いてくれ」と言ってくれた。
元々異動する予定があったことから入院中の8月には私の後任が着任していたが、年明けから産休に入っていた。
私が入院前に書いていた引き継ぎのドキュメントに後任が産休前までの業務分を追記して置いて行ってくれていたため、上司から追記分を共有してもらい読みながら復職に備えた。
復職後の働き方
勤務軽減(時短勤務)中の働き方
こうして2022年7月に無事に復職を果たした。
元々使っていた業務用のPCはアカウントが無効化されており新規にPCの払い出しを受けたが、本来はオフィスで受け取りとセットアップが必要なところ、会社の人事が代わりに最低限のセットアップを行った上で自宅までPCを発送してくれた。
復職して真っ先にしたことは休職中にお見舞いやビデオメッセージをくれた方々にお礼のメールを出すことだった。
しばらくの間はWeekly mtgに出たり、Monthlyのルーチン業務をこなして業務に慣れることから始めた。
かっきり1年働いていなかったので記憶が薄れているところも多く、上司や同僚が適宜フォローしてくれたのが非常にありがたかった。
白血病の治療中につらかったことのひとつに「社会とのつながりが失われ、一人取り残されること」があった。
復職することでそのつながりを取り戻すことが出来、生まれてこのかたこんなに労働に喜びをおぼえたことはないと思いながら仕事をした。
復職前はあんなに長く感じていた1日が仕事をしているとあっという間に終わることにもびっくりした。
案の定午前中に吐き気を覚えてベッドの上で横になりながらPCを触る日も多かった。
これまで考えてもみなかったけれど、朝から晩まで椅子に座って仕事をするというのは大変なことだ。
一方で午後には調子が出てつい終業時間を無視してしまう日もあり、そんな時は上司から即チャットが飛んできた。
上司が折に触れて「体調どう?」と聞いてくれたため「午前中はベッドに行っていることが多いです!」「ヘルペスになりました!」「めっちゃ吐きました!」などと正直に答えていた。
復職前に懸念していた通り突発で病院を受診することも多く、勤務にぼこぼこ穴を空けていたが、私の勤務先は9月末で有給休暇の残日数がリセットされるため比較的残日数には余裕があった。
次第にルーチン業務以外もこなせるようになり、仕事中に悪態をつく回数が増えた。
仕事によるストレスがあるということは、それだけ元の生活に戻ってきているということだ。
夫も「また悪態が聞けて日常に戻ったようで嬉しい」と喜んでいた。
勤務軽減(時短勤務)からフルタイムへ
産業医とは毎月面談があった。
復職前から産業医には「午前中は調子が悪い」ということを伝えていたので「相変わらず午前中は調子が出ないですか」と聞かれたりしたが「午前中に調子が出ないのは白血病になる前からなので」としれっと答えたりしていた。
(会社にフレックスが導入されても同僚が皆9時始業を継続する中、私だけ9時半始業を貫いていた)
前述の通り
4時間勤務→6時間勤務→フルタイム残業なし→フレックス
というステップでフルタイムに戻していくのが通例だが、私は
7月:4時間勤務(11時〜16時)
8月:6時間勤務(11時〜18時)
9月:6時間勤務(11時〜18時)
という勤務形態を辿った。
本当であれば9月にはフルタイム残業なし(9時〜17時半)になるはずだったのだが、どうしても9時より前に起きることが難しかったためである。
産業医は「本当は勤務軽減は長々とやるものではないんですけどね」と言いながら応じてくれた。
私はそもそも退院後3ヶ月で復職した時点で自分のことを100点満点だと思っていたので気が咎めることもなかった。
10月からはフルタイムに戻すことにした。
とはいえ9時始業なんて冗談じゃない、9時半からしか仕事を始めないぞ、という断固たる意思があったため、産業医に頼み込んでフルタイム残業なし(9時〜17時半)の期間を飛ばし、いきなりフルフレックスにしてもらった。
残業しようと思えば出来てしまう勤務形態だが、周囲の理解もあるし自分で業務を調整すれば残業せずに済ませることは出来ると思ったし、フルフレックスなら有給休暇を減らすことなく平日に通院出来るため、結果的に時間固定で勤務せよと言われるよりずっと良かった。
9月の勤務時間は当初の想定とは違ったかもしれないが、10月にはすっかり元の勤務形態に戻すことが出来た。
10月の終わりには朝8時のCallに出て8時〜18時の9時間労働をしたが無事に終えることが出来てかなり自信がついた。
また、この頃から午前中に吐き気を催す頻度が減り、病気前のように働けている実感が持てるようになってきた。
残業もするようになった。
異動再び
年末を意識し出す頃、異動の打診があった。
元々白血病にならなければ前年7月にはしていたはずの異動だし、新年度になれば後任も育休から復職してくるだろう。
新年というのは異動するには良いタイミングかもしれない。
異動先として提示されたのは偶然にも白血病で取り消しになった当時の異動先と同じ部署であった。
以前とは若干異なるポジションだったが、ここなら私のやりたいことをやらせてもらえるように見え、とても魅力的でありがたい話だ。
上司や人事が異動の条件に「リモートワーク必須」を掲げてくれており、異動先がそれを快諾してくれたこともありがたかった。
何より、これだけの病気(そして異動取り消し騒動)があったにも関わらず引き続き私をフェアに扱ってくれる会社に心から感謝した。
担当しているサービスをこよなく愛していたし、休職期間を含めて5年間在籍した大好きな職場に別れを告げることがたまらなく寂しかったが、「明日から入院してください」と言われた日からよくぞここまで漕ぎ着けたな、と感慨深かった。
異動後は社会人になってからこんなに働いたことはないという勢いで働くことになるが、それはまた別の話である。
病気と仕事
社内報を出す
実は同病の同僚は平野さんだけではなかった。
SNSを通じて知り合った彼は村﨑さんといい、彼も同じグループ企業に勤めていることが分かった。
10万人に5〜6人と言われる急性骨髄性白血病の患者がこんなに身近なところにたくさんいることにとても驚いた。
同時に「見えていないだけで同じ境遇の方が身近なところにもっとたくさんいるに違いない」と考えるようになった。
入院中はもちろん退院してからも常に色々な不調や不安と向き合いながら生活していかなければならない当事者として、平野さんや村﨑さんといった仲間に出会えたことは貴重な財産だ。
平野さんが書いてくれた社内報記事の続編を出して、どこにいるかは分からないけれど同じ境遇の方に「ここに仲間がいるぞ」と伝えたいと思うようになった。
社内、グループ内の色々な方にご協力いただき記事を一本出すことが出来た。
広報にいる同期が担当してくれたのもとても嬉しかった。
平野さん、村﨑さんとはこの記事の撮影時に初めて会ったが、初対面とは思えないほど楽しくて終電までずっと話し込んだ。
記事が公開された後、ご家族が血液疾患だという社員の方からご連絡をいただくことがあり、記事を出した意味があったと実感した。
働くということ
白血病は寛解してから5年間再発しないことで初めて完治と呼べる息の長い病気である。
治療期間+5年間を社会から隔絶されたまま過ごすことは現実的ではないし、抗がん剤治療や造血幹細胞移植によって体力や免疫力ががくっと下がっても生活のために働かなければならない時もある。
幸い私はフルリモートや勤務軽減といった制度の恩恵を受け、上司や同僚の手厚いサポートのお陰で社会復帰を果たすことが出来たが、同じような体を持ちながらそれがままならない当事者の方もいらっしゃる。
私ももし「毎日出勤しろ」などと言われたら体力がもつ自信は全くないし、いまだにコロナやインフルといった感染症が怖い。
何より周囲の理解を得られなかったらそのことに絶望するに違いない。
「◯◯な部分を配慮してもらえたらパフォーマンスを発揮できます」という方はたくさんいらっしゃることと思う。
柔軟な制度の導入が難しい業種や職種は存在するかもしれないが、少しでも当事者が安心して働ける社会にすることで、当事者以外の方も含めた全ての方がより参画しやすくなるのではないだろうか。
働くことでアイデンティティのひとつを確立し、社会とのつながりや仲間を得、病気に向き合ってきた時とは異なる自分を手に入れることが出来る。
社会復帰の仕方は人それぞれだが、人間関係や環境に恵まれて復職することの出来た自分はこの上なく幸せだと感じた。
白血病発症時から本日に至るまで暖かく支援してくださった上司や同僚、人事や労務、会社の方々に改めて感謝申し上げたい。
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