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宇佐美ヨリエはなぜ人を殺したのか?

古畑任三郎シリーズの再放送中なので古畑の推し犯人の話をします。
※以下、古畑任三郎第2シリーズ第2話「笑わない女」のすべてをネタバレしております


「は?」という動機

いかにもお堅そうな女性教師が生徒に人気のある男性教師を殺すという導入だけ見た時点では、この2人の間に男女の関係ができてしまって男のほうは戯れのつもりだったのに堅い女が深刻に受け止めてしまって恨みを募らせて……という動機が思い浮かぶ。が、そうではないとなるとやはり校則を巡る対立かということになる。

しかし、宇佐美ヨリエが阿部先生を殺した動機はそのどれでもなく、「口紅をこっそり塗っているところを見られたから」であった。一瞬、は?となるような動機である。ミステリ史上にもわりと残るレベルでトップクラスに不可解な動機といえるかもしれない。しかし、宇佐見ヨリエという女の価値観を考えていくとこれは彼女にとっては不可解どころか当然の帰結だとすら思えるようになってくる。

「女らしさ」への憎悪

古畑さんの「それはあなたが女性だという証拠です」というセリフが「女らしさ」の押しつけみたいでちょっと嫌だという感想を見かけた。もちろん時代的なものもあるだろうが、この言葉を喜ばなかったヨリエの心のなかにも「女らしさ」への反発があったのではないだろうか。単に好みじゃない、趣味じゃないからと言わゆる「女らしい」とされるようなピンク、リボン、フリルなどのアイテムやメイクを避ける人はいる。しかし、なかにはそれらをまるで親の仇のように憎み、過敏に反応する人がいる。それらを好む女性をバカにしたり、罵る人もいる。そういう人にあるのはそれらが似合わない、身につけられない「女らしさ」の基準から外れた自分へのコンプレックスなのかもしれない。本当に「女らしさ」の基準なんてどうでもいい、好きなものを好きなように身につければいいと思えていたならたまたまその基準と自分の好みが一致していただけの人を攻撃したりはしない。酸っぱい葡萄の例えのように、自分が選ばなかったものを貶めるのは内心それに何らかの価値を感じているからである。「女らしさ」を攻撃することで「女らしさ」の基準が存在することを認め、その基準に沿わない自分を攻撃によって守ろうとしている。自分が実は「女らしい」とされるものに興味がある、身につけてみたいと思っているかどうかは問題ではない。むしろそういうものに関心が本当にない場合ほど歪みは大きい。

ヨリエが「口紅をつけているところを見られた」というだけで殺意を抱いたのもこの歪みの表出だろう。内心「女らしい」ことをしてみたいと思っていたのなら戒律を破ってしまったことに激しく後悔はしても、殺したいと思うまでには至らなかったはずだ。古畑さんは阿部先生は誰にも言わないと約束してくれたと想像していた。実際生徒から人気があり聞き込みでも特に悪評が上がることはなかったので、敵対していたヨリエの弱みを握ったと喜ぶ卑劣漢ではないだろう。第一そういう事情があったのならヨリエが言ったはずである。もし彼女が「本当はこういうこともしてみたかったのね、私」と口紅に興味を持った自分を肯定し、許していれば、阿部先生を殺すどころかむしろ人間くさい一面を知られることによって関係が良好になっていたかもしれない。口紅をつけた自分を許すことは化粧をしたり歌ったり笑ったりする生徒たちを許すことでもあり、戒律は大事にしながらも少しずつ校則はゆるめていきましょう、という方向に持っていくこともできたかもしれない。

しかし実際はそうならなかった。阿部先生を殺すまでに至ったのは彼女が自分のなかに眠っている「女らしい」自分を心の底から否定したかったからであり、口紅=「女らしさ」に一瞬でも関心を示した事実を知られてしまったことは彼女の人生で最大の恥辱だったからである。

きっとヨリエにとっては悪魔に魂を売り渡しかけたも同然だったのだろう。だから古畑さんに「あなたに赤い口紅はとてもよく似合うと思いますよ」と言われても「ちっとも嬉しくないわ」だったのである。ヨリエにとって「女」の部分は存在してはいけない、憎むべき対象でしかないからだ。

生徒はヨリエを評して「生徒いじめるのが生きがいみたい」と言う。実際にヨリエが喜びを感じていたかどうかはともかく、こっそり化粧品を持ち込み、ダンディな刑事さんにキャーキャー歓声を上げる少女たちはまさにヨリエにとって憎むべき「女らしさ」のような存在である。彼女は生徒たちへの厳しい指導を通して自分のなかの「女」も殺そうととしていたのかもしれない。ここからは根拠ゼロの妄想だが、少女時代のヨリエが母親から「女らしさ」を一切禁じる教育を受けていて、母にされたことを教師として生徒たちに再現しているとかでもいい。

戒律とは何なのか

ヨリエのルールは自分で自分を律する「マイルール」ではなく、もっと上から課せられたルールである。本当はおいしいと思ったことのない白湯を飲み続けるのも、重大な証拠となるかもしれないガウンのボタンを回収するために死体の手を開かせることができなかったのも、「部屋でマリア・カラスを聴いていた」と答えられるようにするためにわざわざテープを買ったのも、みんなそのルール=戒律を守るためだった。この学院で少女時代を過ごし、大人になってからは教師として学院に身を捧げている彼女にとって、戒律とはアイデンティティそのものだった。こうなると「口紅をつけた自分」を肯定できなかった理由もわかる。 一部でも、一瞬でも戒律を破った自分を許すことは戒律を固く守って生きてきた自分を崩壊させることになる。口紅に興味を持った自分も「自 分」の一部なのに、そのような「自分」を受け入れることが自分自身の崩壊につながってしまうというジレンマのなかに彼女はいるのである。

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