こんにちは、こおるかもです。
この記事では、村上春樹のことが好きすぎるぼくが、村上春樹作品の魅力を滔々と語ります。
今日は、村上春樹作品全体を貫くテーマのひとつである、「システムと個人」ということについて。
さっそくいってみましょう。
はじめに
そもそもですが、村上春樹を読むときは、あまりテーマなどを気にせず、「感じたままに読む」というのがオススメです。彼の紡ぐ物語には、どこか言葉にできない、琴線に触れて語りかけてくるものがあります。
なので、あまり頭の中で内容を言語化しないことが良い村上春樹体験には大切な要素です。
しかし一方で、作品を多く読んでいけば、そこにはいくつか共通のモチーフやテーマがあることに、嫌でも気づいてきます。そのうちのひとつが、「システムと個人」というテーマです。
少し引用してみましょう。
ダンス・ダンス・ダンス
1Q84
つい長くなってしまってすみません。本当は他の作品からも引用しようとしたのですが長くなりすぎるので止めました。
ともあれ、いかがでしたでしょうか?ダンス・ダンス・ダンスでは、「高度資本主義社会」、1Q84では「新興宗教」といったものが、個人に対抗する大きな「システム」として描かれています。そしてこうした、現代人が宿命的に避けては通れない「システム」に翻弄される主人公の姿が描かれます。
特徴的なのは、翻弄される主人公が、「圧倒的に情報が不足している」状態で、自分の置かれた宿命に立ち向かっていかなければならない、というジレンマがよく描かれていることです。
村上春樹にとっての「システムと個人」
村上春樹自身が、どの程度こうしたものを意図して書いているのかはわからないのですが、一方で、この「システムと個人」について、強いポリシーを持っていることが、他の様々な作品から伺えます。
村上春樹が小説ではなく、スピーチやエッセイの中で語った内容を引用してみましょう。
エルサレム賞スピーチ
猫を棄てる
最後に
いかがでしたでしょうか?ぼくは上記のスピーチとエッセイの言葉を初めて読んだ時、あまりの衝撃と感動で、目頭が熱くなりました。「卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます」とは、なんと慰めに満ちた言葉でしょうか。
世界は分断され、富むものがより富み、システムが肥大化しています。個人の声が瞬時にシステムに飲み込まれ、かき消されていく時代です。
そうした世界では、残念なことに、往々にして個人の方が間違っていることも少なくありません。高度に洗練されたあらゆるシステムを前に、「でーたフソク」の個人などに、勝ち目がないのです。
そうしたなかで、自分が「交換可能」な「平凡な個人」であると知っていながら、自分なりの責務を果たしていくことが、どれだけ尊いことか、と、村上春樹は物語を通じて読者を励ましてくれています。
最後に、村上作品のなかでぼくが一番好きな短編小説の一節を引用して終わりにします。
最後までお読みくださりありがとうございました。
かえるくん、東京を救う