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村上春樹について語る時にぼくの語ることー「システムと個人」について

こんにちは、こおるかもです。

この記事では、村上春樹のことが好きすぎるぼくが、村上春樹作品の魅力を滔々と語ります。

今日は、村上春樹作品全体を貫くテーマのひとつである、「システムと個人」ということについて。

さっそくいってみましょう。

はじめに


そもそもですが、村上春樹を読むときは、あまりテーマなどを気にせず、「感じたままに読む」というのがオススメです。彼の紡ぐ物語には、どこか言葉にできない、琴線に触れて語りかけてくるものがあります。

なので、あまり頭の中で内容を言語化しないことが良い村上春樹体験には大切な要素です。

しかし一方で、作品を多く読んでいけば、そこにはいくつか共通のモチーフやテーマがあることに、嫌でも気づいてきます。そのうちのひとつが、「システムと個人」というテーマです。

少し引用してみましょう。


ダンス・ダンス・ダンス

我々は高度資本主義社会に生きているのだ。そこでは無駄遣いが最大の美徳なのだ。政治家はそれを内需の洗練化と呼ぶ。僕はそれを無意味な無駄遣いと呼ぶ。考え方の違いだ。でもたとえ考え方に相違があるにせよ、それがとにかく我々の生きている社会なのだ。それが気にいらなければ、バングラデシュかスーダンに行くしかない。
ダンス・ダンス・ダンス(上)P.36
「みたところ君もなかなか頑固そうな男だな」と彼は言った。
「頑固ではないです。僕には僕なりの考え方のシステムというものがあるだけです」
「システム」と彼は言った。そしてまた耳たぶを指でいじった。「もうそういうものはあまり意味を持たないんだよ。手作りの真空管アンプと同じだ。手間暇かけてそんなもの作るよりはオーディオ・ショップに行って新品のトランジスタ・アンプを買った方が安いし、音だって良いんだ。壊れたらすぐ修理に来てくれる。新品を買う時には下取りだってしてくれる。考え方のシステムがどうこうなんて時代じゃない。そういうものが価値を持っていた時代もたしかにあった。でも今は違う。何でも金で買える。考え方だってそうだ。適当なのを買ってきてつなげればいいんだ。簡単だよ。その日からもう使える。AをBに差し込めばいいんだ。あっという間にできる。古くなったら取り替えりゃいい。その方が便利だ。システムなんてことにこだわってると時代に取り残される。小回りがきかない。他人にうっとうしがられる」
「高度資本主義社会」と僕は要約した。
「そうだ」と牧村拓は言った。
同 P.340

1Q84

青豆はタオルで顔の汗を拭きながら言った。
「私がやっているのは、あくまで実際的なことです。筋肉の成り立ちや機能について大学のクラスで学び、その知識を実践的に膨らませてきました。技術をあちこち細かく改良して、自分なりのシステムを編み出してきました。ただ目に見える、理にかなったことをしているだけです。そこでは真実とはおおむね目に見えるものであり、実証可能なものです。もちろんそれなりの痛みを伴いますが」
1Q84 Book2 P.233
男は目を開けて、興味深そうに青豆を見た。
「あなたはそのように考えている」
「なんのことですか?」と青豆は言った。
「真実とはあくまで目に見えて、実証可能なものであると」
青豆は唇を軽くすぼめた。
「すべての真実がそうであると言っているわけではありません。私が職業として携わっている分野においてはそうだということです。もちろんすべての分野でそうであれば、もっとものごとはわかりやすくなるのでしょうが」
「そんなことはない」と男は言った。
「どうしてでしょう?」
「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」
同 P.234
「この世界にはリトル・ピープルなるものがいる。少なくともこの世界においては彼らはリトル・ピープルと呼ばれている。」
(中略)
「我々の生きている世界にとってもっとも重要なのは、善と悪の割合が、バランスをとって維持されていることだ。リトル・ピープルなるものは、あるいはそこにある何らかの意思は、たしかに強大な力を持っている。しかし彼らが力を使えば使うほど、その力に対抗する力も自動的に高まっていく。そのようにして世界は微妙な均衡を保っていく。どの世界にあってもその原理は変わらない」
同 P.274
「リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。」
同 P.276

つい長くなってしまってすみません。本当は他の作品からも引用しようとしたのですが長くなりすぎるので止めました。

ともあれ、いかがでしたでしょうか?ダンス・ダンス・ダンスでは、「高度資本主義社会」、1Q84では「新興宗教」といったものが、個人に対抗する大きな「システム」として描かれています。そしてこうした、現代人が宿命的に避けては通れない「システム」に翻弄される主人公の姿が描かれます。

特徴的なのは、翻弄される主人公が、「圧倒的に情報が不足している」状態で、自分の置かれた宿命に立ち向かっていかなければならない、というジレンマがよく描かれていることです。

でーたフソクノタメ、カイトウフノウ。トリケシきいヲオシテクダサイ。
画面が白くなる。
いつまでこんなことが続くのだろう。と僕は思った。僕はもう三十四だ。いつまでこれが続くのだ?
ダンス・ダンス・ダンス P.23
この謎に満ちた1Q84年が終わりを迎えるまで、私はこのような単調な生活を高円寺の一画で送り続けることになる。料理をつくり、運動をし、ニュースをチェックし、プルーストのページをめくりながら。
1Q84 Book3 P.50

村上春樹にとっての「システムと個人」

村上春樹自身が、どの程度こうしたものを意図して書いているのかはわからないのですが、一方で、この「システムと個人」について、強いポリシーを持っていることが、他の様々な作品から伺えます。

村上春樹が小説ではなく、スピーチやエッセイの中で語った内容を引用してみましょう。

エルサレム賞スピーチ

ひとつだけメッセージを言わせて下さい。個人的なメッセージです。これは私が小説を書くときに、常に頭の中に留めていることです。紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれています。こういうことです。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

さて、このメタファーはいったい何を意味するのか?ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。

しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにはそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。
村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵」

猫を棄てる

いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。

それは、この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないとう事実だ。それはごく当たり前の事実だ。しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえされがどこかにあっさりと吸い込まれ、固体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。

いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。
村上春樹 猫を棄てる 父親について語るとき

最後に

いかがでしたでしょうか?ぼくは上記のスピーチとエッセイの言葉を初めて読んだ時、あまりの衝撃と感動で、目頭が熱くなりました。「卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます」とは、なんと慰めに満ちた言葉でしょうか。

世界は分断され、富むものがより富み、システムが肥大化しています。個人の声が瞬時にシステムに飲み込まれ、かき消されていく時代です。

そうした世界では、残念なことに、往々にして個人の方が間違っていることも少なくありません。高度に洗練されたあらゆるシステムを前に、「でーたフソク」の個人などに、勝ち目がないのです。

そうしたなかで、自分が「交換可能」な「平凡な個人」であると知っていながら、自分なりの責務を果たしていくことが、どれだけ尊いことか、と、村上春樹は物語を通じて読者を励ましてくれています。

最後に、村上作品のなかでぼくが一番好きな短編小説の一節を引用して終わりにします。

最後までお読みくださりありがとうございました。

かえるくん、東京を救う

「ねぇ、かえるさん。私は平凡な人間です」
「かえるくん」とかえるくんは訂正した。でも片桐はそれを無視した。
「私はとても平凡な人間です。いや、平凡以下です。頭もはげかけているし、おなかも出ているし、先月40歳になりました。扁平足で、健康診断では糖尿病の傾向もあると言われました。この前女と寝たのは三ヶ月も前です。それもプロが相手です。借金の取り立てに関しては部内で少しは認められていますが、だからといって誰にも尊敬はされない。職場でも私生活でも、私のことを好いてくれる人間は一人もいません。口べただし、人見知りするので、友だちを作ることもできません。運動神経はゼロで、音痴で、ちびで、包茎で、近眼です。乱視だって入っています。ひどい人生です。ただ寝て起きて飯を食って糞をしているだけです。何のために生きているのか、その理由もよくわからない。そんな人間がどうして東京を救わなくてはならないのでしょうか?」
「片桐さん」とかえるくんは神妙な声で言った。
「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです」
かえるくん、東京を救う
片桐はもう一度深いため息をついた。
「それで、いったい私は何をすればいいのですか?」
かえるくん、東京を救う

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