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ロマンティックアセクシャルの私について

早速だけど私についての話をしたい。

・平成生まれのシス女性
・バイセクシャル
・ロマンティックアセクシャル(日本ではノンセクシャルともいう)

このノートでは、とりあえずこの情報だけあればいい。
物書きでもない私が綴る文は稚拙だと思うけど、届いてほしい人に届くよう、頑張って書いていく。

ロマンティックアセクシャルである私の、恋愛や価値観や、その他人生について。

今の日本の教育や社会構造は、「女性は男性を好きになるもので、男性は女性を好きになるもの」という前提で回っている。
しかし、バイセクシャルとは男性も女性も好きになる人を指す。たまたま好きになった人が異性だった、たまたま好きになった人が同性だった、というわけだ。

私の場合、好きになる割合は半々くらい。
この割合は、個人差がある。ビアン寄りだったり、ゲイ寄りだったり。
一人でも同性を好きになったことがある人は、周りには言っていないけど自分はバイだ、もしくはバイなのかも?と思っている人も多いんじゃないだろうか。

似たセクシャルでパンセクシャル、というのもあるけど、こちらは好きになるのに性別なんて関係ないという全性愛だから少し違う。

そしてロマンティックアセクシャル(ノンセクシャル)とは、恋愛感情は抱くけれど、性欲が人に向かないセクシャリティのことを指す。
俗に言う、好きだからセックスしたい、という思考は持ち合わせていない。
また、勘違いされがちだが、性欲がないわけでもない。ただ、その欲が人に向かないだけで。大好きな恋人だろうと、セックスしたいとは思わない。
その性欲の度合いも人それぞれ。まったくない人もいれば、私のように少しだけある人もいるし、定期的に自己処理する人もいるだろう。なんにせよ、私の中で性欲は、さほど重要なものではない。

セックスは愛情表現のひとつだと言われることがある。
本当にそうだろうか?
セックスは恋人や夫婦間でなくともできる。いわゆる、セフレという関係。
セックスフレンドというくらいなのだから、二人の間にそれなりの情はあるのだろうけど。
でも、それは愛情表現ではなく、言ってしまえば性欲を満たすのに都合のいい関係じゃないのか?
セックスをお金で売り買いする人もいる。人間関係はお金で買えないが、セックスはお金で買える。なぜか?そこに必ずしも愛情が伴っている必要がないからだ。

ただ、コミュニケーションのひとつである、という風に思うこともある。
恋人だから、好きだから、体を許す。
セックスは女性にとっては病気や妊娠のリスクもある。一歩間違えば暴力にもなるその行為を、特別な相手にのみ許すことで、自分の気持ちを表すことがあるかもしれない。

しかし、衣服を脱ぎ、肌を合わせ、体を他人に晒すという行為が、私にはどうしても怖くてたまらない。必要があると思えないのだ。
また、私はセックス=子どもを作るための行為、という考えを持っている。
私は子どもを欲しいとは思わないため、やはり総合的に考えて私にセックスは必要ないということになる。

以上のことから、私には、セックスというコミュニケーションはできない。
その代わり、言葉や行動で、親しい相手や恋人には愛情表現をするようにしている。
それでも、「セックスしてくれないなんて本当は好きじゃないんだ」と言われてしまう。
実際、過去に自分がロマンティックアセクシャルだと気がつく前は、相手に求められたらある程度は応じていた。
断ると空気が悪くなり、「本当は好きじゃないんだろう」と言われてしまうから。
「違うよ」「本当に好きだよ」この言葉は、セックスを前にしては無力だ。
恋愛関係において、なぜそれほどまでにセックスが重要視されるのか、私には理解できない。
それでも私は少数派の人間なのだということが分かってからは、好きな相手が望むことをしてあげられない自分が嫌になり、恋愛にも消極的になっていった。
好きな人とうまくいって恋人同士になることができても、その先にはセックスがあるのかと思うと、恋愛をしたいという気持ちも失せた。
そして、セックスしたくて必死に私を説得しようとする相手のことを見ていると、あんなに大好きだった人なのに、嫌悪感を抱いてしまうのだ。
優しかった恋人の目が、獣のようにギラつく瞬間が、私は嫌で嫌で仕方ない。

私はただ、好きな人と一緒にいたいだけなのに。
一緒においしいものを食べたり、くだらないことで笑い合ったり、お出かけしたり、のんびりくつろいだり。
最初のうちはよくても、セックスができないだけで、恋愛は途端にうまくいかなくなる。
「そろそろよくない?」「そんなにしたくないの?」
こう言われるのはもう分かり切っている。
どれだけ言葉にしても、セックスという行為ひとつができないだけで、私の気持ちはないことにされる。好きな人から信じてもらえないのは、とてもつらい。

セックスしなきゃいけないなら、恋愛なんてもうしなくていいや。
二十代半ばごろ、そう思うようになった。

しかし恋愛感情とはそもそも自分でコントロールできるものではない。これが厄介だった。
それからはなるべく恋愛感情を持たないように、自覚しないように生きてきた。自覚してしまうと、「普通の恋愛」ができない自分と向き合わなくてはならないから。自分を好きな人から否定されるくらいなら、始めから想いなど通じなければいい。ただ好きでいるだけでいいの、なんて少女マンガの台詞のようなことを、自分に言い聞かせた。
そうすることで、自分を守っている。

幸か不幸か、私はいわゆる恋愛体質ではなく、常に恋人がいないと寂しくてたまらない!という感覚は持っていない。
一人の時間が好きだし、たいていの場所なら一人で行ってしまう。
ただ、大切な人が一緒だったらもっとよかったのにな、この景色を好きな人にも見てもらいたかったな、とふと感じてしまうときがあるのも事実だ。

このノートを書こうと思ったのは、自分の過去と、これからの生き方を整理するため。
そして、もし同じような思いをしている人がいて抱え込んでいるなら、一人で悩まないでほしいと伝えるため。

私には、当時、相談できる人がいなかった。
友人に話してみても、「本当に好きな人にまだ出会っていないだけだよ」と真剣に取り合ってもらえなかったことから、人に話すことが怖くなった。
そうなんだね、と受け入れてくれるだけでよかった。
恋人からも友人からも否定されて、私は地に足がついていないような、自分の存在がふわふわしているもののように感じることがあった。

SNSの普及や時代のアップデートに伴い、セクシャルマイノリティのカミングアウトや、同性同士の婚姻について権利を求める声が世間にも届きつつある。
とてもよい傾向だと思う。
ただ、まだまだ認知は浅く、法改正も難しく、差別的な言葉をかける人も多くいる印象だ。
ロマンティックアセクシャルは、数あるマイノリティの中でも更にマイノリティだと思う。
私は膨大な情報が埋もれるこのネットの片隅で、こんなセクシャリティもあるんだよ、と小さな声をあげることにした。


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