見出し画像

映画というのは外食に似ている

「映画を観る」という経験は外食に似ている。

私はホラー映画が好きだが、それを言うと日頃
「バッドエンドは嫌い」
「お金払ってまで嫌なストーリー観たくない」
「教訓や感動が残る映画しか観たくない」
「泣ける映画しか観ない」
みたいな反応が返ってくる事も少なくない。
(因みに誰彼構わず空気読まないでホラー映画好きをアピールしてるわけではないです。映画好きの人との会話や、映画の話の場で)

勿論、映画は娯楽なので、限りある時間とお金を使って人それぞれどんな映画を好むか(どんな映画を好まないか)は自由だし、作品への好き嫌い含め、そこに優劣なんて無いと私は思っている。これは大前提。

だがふと考えた。
好んで観ない、はともかくとして、何故私は
“教訓や感動をメインの題材とした作品を観ようと思わない”
のだろうか、と。

大晦日から正月三日も仕事だったので、低速の頭の回転ながらボンヤリそんな事を考えていて、ストンと納得できる感覚を得た。

映画を観る、というのは外食をする事に似ている。

映画鑑賞がそこそこお金がかかるから、高額な焼き肉や名店に近いとか、そういう話ではない。

“お金を払い、自炊では食べられないものを食べる”。
という所
だ。ここが、フィクションの映像体験を買う、という事に似ている。

外食、に多くの人が思いつくのは多分「お金を貯めたり特別な日に、高額で珍しい高級料理を食べに行く」、つまり、非日常の贅沢を味わう、という外食だろう。
私の感覚でたとえるならばこのタイプの外食は、映画で言うと『スター・ウォーズ』や『ハリー・ポッター』のような作品を観ることにあたる。
「非日常や、別世界の夢のある大スペクタクルを観る!」
といった感じ。

『スパイダーマン』や『ワンピース』等、漫画やアニメのお気に入りキャラクターの映画を観に行くのは、まるでラーメンの名店での食事だ。
「よく知ってる食べ物だけど、それの特別版を食べに行こう」
といった外食的である。

このたとえでいくと、私にとって映画(=外食)とは、特別な日の高級レストラン的でも、スペシャルなラーメン的でもなく、
「毎日一回足を運ぶジャンクフード」
的なポジションにある。

映画を観る事は特別でもないし、好きなアニメのザムービーが出たから観ようといった野外オタ活のようなイベントでもない。
映画館にせよサブスクにせよ日常的である。

更に、そこに「美味いご馳走が出てこなかったとしてもそれすら楽しい」のだ。

昨日は肉とチーズの頼んだら定番の思った通りの味したな。今日は……おっ、見たことないバーガーが売ってるな。これにしたろ

激マズ

今日はハズレだったな!ガハハ!明日は何食べようかな!

これでも全然悪くない。これの繰り返しが私の映画鑑賞スタイルだ。
そして好むものは激辛やゲテモノといった、一種チャレンジと冒険的な味つけのもの(ホラーやスプラッタ)。

ほら、人によっては
「金出してまでゲテモノ冒険したくない」
「激辛の店好きなヤツ舌がおかしいだろ」
「せっかく外食するなら特別な高級レストランがいいよね」
ってなるだろう。これは本当に、冒頭で書いた、ホラー映画をたくさん観ている、と話した時に返ってくる反応に非常に近い。

日常的にホラー映画を摂取する私は、逆に
「青春や人情のハートフル日常群像劇」「観終わった後に、良い話だったねしか残らない美談」
みたいな作品が悉く苦手だし、観たいとは思わないけれど、これも
「外食で家庭料理やお袋の味的なものにお金払いたくないし、上品なお味確定の美食食べてその通りの味しても別にな……」
といった、私は外食してまでこういうの求めませんよ、という事なので、家庭料理(日常モノ映画)や美食(いい話映画)の否定やdisではなく、私がお金をかけたい範疇のものではないというだけの話である。

誰がどんなものに外食でお金かけたいか、なんて自由じゃないですか。
本当にそれと同じ。めちゃくちゃ分かりやすいし的確な感覚かなと思う。

「映画は外食」喩え、いいな。
ホラー映画差別とか、“自称映画好きなのに○○観てないの?”的なうぜえ映画クラスタとかにからまれた時とか、逆に私が“映画館出口で「泣きました」感想女使った恋愛脳映画CM”に苛立って心狭くなりかけた時にも、ヌルリとやり過ごせる建設的な考え方な気がする。

正月から仕事の合間に、卯年らしいことしたろ!と『バニーマン』というスプラッタ映画をサブスクで購入して見事にハズしたわけだが、2023年も、カジュアルに日常的に映画に触れていこうと思う。
もう少し雑食になりたくもあるけれど、いろいろありすぎて映画のいい話や泣ける話では微動だにしなくなったメンタルをまず、どうにかしないといけないね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?