指導力(仮)が無い!話
〇子どもに話を聞かせることができる
〇子どもに指示を通すことができる
〇計画通りに事を運ぶことができる
指導力と言っても、いろんな定義があると思うが、当時の僕が捉えていたのはこの3つ。要は”子どもを動かす力”のこと。
これが僕には“無かった”。
実は“それなりにあると思っていたのに無かった”パターン。
所謂、地獄。
この原因として、行き着いたのが以下。
①身長(169cm)
②胸板(心身ペラ夫)
③顔(メガネ込)
④性格(心身ペラ夫)
⑤教師観(固定観念)
⇒これまでの人生そのもの
異論は承知の上で、
しばしのご清聴を宜しくお願いいたします笑
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僕の愛するK市には、南北問題がある。
北部はハイソで都心のベッドタウン的な要素アリ。親の知的水準に伴なって生活水準も高い。もちろん個人差はあるが、塾通いの子どもも多く、全体的にお勉強ができる。担任が気を付けるべきこととして噂に聞いていたのは、”熱心すぎる保護者への対応”と”子どものトラブルが裏に入ること”。
比べて、南部は臨海部に広がる工業地域の色が濃い。生活水準に比例して教育への関心が低い保護者も多い。少し前にクレイジージャーニーでBADHOPが取り上げられて、断じてあれが全てではないけど、反社勢力との距離が近いのは間違いない。学校現場においても、『学習<児童指導』『学習<躾』となるタイミングは日常的にある。
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2006年4月。『南部of南部』に着任。
当時、「F3」と呼ばれていた初任校。
求められたのは「パワー」。高学年には『若さ』か『パワー』を備えていそうな人間がズラリと並び、日常的に「締めなきゃ駄目!」という教えを頂戴した。 要は『パワーをもってパワーを制せ』と。ハンムラビから継承された、実に明快な作戦である。
当方、中・高・大を体育会で過ごし、骨格と運動能力に反して体育免許も取得。大なり小なり、そういったパワーは会得していたつもりだったが。。。
撃の沈。無の念。絶の望。
僕のパワーではどうにもならなかった。
指示を通すべく、とにかく大声を出し、威嚇もした。明け方に自分の寝言(怒号)で起きることも度々。この頃は、僕の全生命力をパワーに変換していたようにも思う。それでも、学年主任への凄まじい暴力を止めることはできなかったし、2年目に女子達の暴走に対処することはできなかった。(※『何もなくなった話』参照)
僕のちんけなパワーなど、人の人生を変えるどころか、
一刻のトラブル抑止にすらならなかったのである。
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あれから10数年。
2校目で主任をやりながら、自分のスタイルを模索し、
学校を離れたことで、やっと言語化できた。
もはや胸を張って言えるが、『僕には指導力が無い!』
正確には、『僕には(パワーを要する)指導力が無い!』
以下、理由の裏付け
①身長(169cm)・・・・・・チビは怖くない。
②胸板(心身ペラオ)・・・・ペラオは怖くない。
③顔(メガネ)・・・・・・・メガネは怖くない。
④性格(心身ペラオ)・・・・ぺラオは怖くない。
⑤教師観(固定観念)・・・・パワーに固執してた時点でアホ
つまり、この頃の僕は、
・心身共に、向いてなく、好きでもないタイプの教員になろうとしていた
・「従わせる=指導力」という観念に固執していた
・のび太がジャイアンになろうとしていた
一番最悪だったのは、
・「教育」の名においてならば、
パワーで従わせることも「正義」だと思っていた
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教育にしても、躾にしても、パワーに頼ってしまう状況は多い。
上下関係を形成できるし、何より即効性が高い。
多くの場合「無自覚」で、
自覚していても、「この子のため」との魔法の言葉で、
他人にも自分にも肯定化されている。
ただ、無礼を承知で言い換えるなら、
それは”恐怖心を煽って従わせている”だけに過ぎない。
かつての、考え無しで、子ども目線の無い、横暴だった自分を恥じ、
その反省と共に、パワーに偏重してしまうことの危険性を記したい。
<続く>
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