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弱音を吐けないわけ・・・

昨日(2024・1・15)弟を新しい整形外科に連れていくこととなった。
弟は「アテトーゼ型脳性麻痺」を生まれたときに患い、身体障碍を持っている。

後、数日で58歳となる。

私を含めて6人兄弟であったはずの、生き残った2人だ。

弟は早産で生まれ、対処があまりに雑だったことで保育ケースの中で高熱を出し、一時的に900gまで体重が落ちた。

「生きることを許された」

医者が言うには、「目も見えないし、耳も聞こえない、歩くことも喋ることもできないだろう・・・」と。
入浴は3日に1回・・・他は体を拭く程度と言われていた・・理由は「体力を失うから」だ。
入浴とは案外体力勝負なんだよね。

そして、母の奮闘は始まる。
常に頭の上にお日様が来るようにしていた(目が下を向いてしまったままの状態)ので、光ある方に目を動かせないかと考えたそうだ。

そして赤ちゃん運動をしたり、障碍があろうとも外に私と一緒に連れ出した。(写真が残ってた)

今から58年も前となれば、障碍のある子供・は、今よりも奇異の目で見られてしまったのは仕方がない。
それでも母は「我が子だ」と外に連れて行ったし、親戚に「障碍者を産んで」など言われたが、「我が子だ」と連れて行った。
私と弟を育てるのに仕事もしていたから疲れていたんだろう、父の家でうたた寝をしてしまい、親戚に「嫁が居眠りするとは」と言われたそうだ・・

おそらくそれを私は聞いていた・・だからこそ、明るく振る舞い母のそばを離れなかった。

それを父は「共依存の毛があるよな」と言ったものだ。
共依存に関しては私と長女がよく連んでいたから、「お前ら共依存だよな」と吹っかけてきたので叩き潰した覚えがある。

靖国神社・2024・1・14

弟を医者に連れて行くのは、手があればヘルパーさんに頼んでいたのだが、新型コロナのおかげで時間が決まりきれず、私が動いていた。

弟の障碍は治るはずがない。
治ることがあろうはずもない。

弟はそれでも、少しでも動けるように、生きていけるようにと諦めることを知らない。
死にたい・・お母さんが僕をこうして産んだのだ・・・とは58年間言ったことがない。

産んでくれと頼んだわけじゃないと、言う人もいる。
だけど、弟はその現実を持ってしても、「生まれたことの奇跡」を使おうと足掻いている。
今では車椅子になり、常に痛みや痺れがあるというのにも関わらず、負けないで生きていこうとしている。

母も82を過ぎて、ふとした時に「産まないであげればよかった」ということがある。
自分の命の限界を見始めているからかもしれない。
母の医者に関したことも負けずに調べていかねばならない。

父が亡くなり18年目を迎えたが、私は成長できているだろうか・・・
誰一人諦めていないのに、私が諦めるわけにはいかない。

しかし・・医者を選ぶのは容易ではない。
今回も、私的にはいささか疑問符が付いてしまう。
前医者からの紹介状とCDの写真・・これだけで、本人に問いもなく、触診もない。
そして1ヶ月分の薬を処方して、次回予約もない。

まあ、電気治療を10分弱受けたのは今までになかったが・・

弟はいう「どこに行っても似たような治療」だと。
それは仕方がないが、聴覚障碍や言語障碍も持っているから何を話されてもわからないのだ。
だから、私に詳しい説明をしてほしいので、聞くのだけど明確な流れが出てこない・・

余計な思考だろうけれど、「障碍があるのだから仕方がない、そのまま薬飲んで我慢してね」と言われているようなイメージだ。

いつしか、どこかの施設にお願いしなくてはいけなくなるだろう・・・
母が父のいる世界へ行ってしまったら、弟を引き取るのは難しい・・理由は、私の旦那が発達障碍だからだ・・しかも高齢になってきて頑固さが著しい。
揉め事になるしかない。

では、どこをどのように調整したらいいのか・・・

現在の生活指導員でいいのか(入所先の話でチラシをくださり、で、どうしろと?で止まっている)
母は息子がいるから今はしゃっきりしている・・
母にとっては、今も小さな息子なのだ。(会社に行くのに自分の医者の時間が早いと送ってやれないと言い始めた・・いや、母さん・・・そいつ58の大人だから・・・そんくらいは出来る人ですよ?)

さて、どう動こうか・・・

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