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短編小説 『ぼくのゆめ』

 今日もまた、生きている。眠りに着く直前に考える。緩やかな死が訪れやしないかと。もちろんそれが難しいことは分かっている。でも、望まずにはいられない。

 閉め切ったカーテンから漏れ出る光。その差し込みに、朝にも関わらず憂鬱を覚える。いや、朝だから憂鬱なのだ。また一日が始まるのだと、嫌でも自覚してしまう瞬間だから。

 階下から聞こえてくる生活音。真下がリビングだから、その騒がしさ、慌ただしさが伝わってくる。水の出る音。包丁で何かを刻む音。一つ一つの日常を感じさせる音が、いちいち鬱陶しい。自分はここにいるのだと、ここにしかいられないのだと、嫌でも感じさせてくる。

 僕を残した三人の家族。今日もいつものように朝食の卓を囲んでいるのだろう。容易に想像出来る、穏やかな時間。その時間を、僕は簡単に壊す事が出来る。リビングに行けばいいのだ。しかしそんなネガティブ発信の行動、取る気にもならない。

 迷惑はかけたくないと思っている。二十代も後半になって、何をやっているのだろうと思う。だけれど同時に、それは僕だけのせいなのかとも思ってしまう。

 微かな笑い声。ということは、今日は休みなのか。仕事をしない無為な毎日は時間だけでなく曜日感覚も狂わせる。高校生の弟は、年頃にも関わらず両親と上手くやっている。僕には不思議で仕方がない。親というのは反発するためにいるのではないのか。衝突するのが当然なのではないか。そういう考えはもう、古いのか。それとも、この先も上手くいくだろうという弟の自信が、両親との円滑なコミュニケーションに一役買っているのかもしれない。どうせ家から出て行くのだから、今だけでも親と仲良くしていようと。兄と違って、俺はやっていけるから、と。

 穿ち過ぎの考えに思わず苦笑が漏れる。弟が既に兄をそういう対象としていないことは分かっている。尊敬もなければ疎んじるわけでもない。最早興味を持っていないのだ。弟はきっと、自分は一人っ子だと思っているのではないか。

 そうだったらどんなにかいいだろう。先に生まれておいて、そう思う。いや、そう思いたいのかもしれない。弟は一人っ子なのだと。弟だけど一人っ子なのだと。そうなっていたかもしれない未来があったことを、僕は夢見ているのかもしれない。

 時計を見る。8時を回っていた。そろそろ朝食は済んだだろうか。休日だからどこかに出かけるだろうか。そうであって欲しい。誰もいない家には、僕が求めている咎められない静けさがある。

 2階に上がってくる足音。弟だ。隣の部屋に入っていくのが分かる。そしてすぐに出て行く音。それから忙しなく階段を駆け下りて、次いで、いってきます、の声。返事をしてくれる者がいることを確信しているその明瞭な発声に、どうしてか胸が締め付けられる。それは過去を懐かしむ痛みなのかもしれない。小学生の頃は確実に自分も持っていたその証を思い出して、傷が疼くのかもしれない。

 そうなのだ。確かにあったのだ。そんな時が。屈託のない日々が。暗闇を抱え込んでいない毎日が。確かに過去には、あったのだ。

 今は振り返ることも出来ない。しっかり存在していたのに、その事実を直視出来ない。とても耐えられない。あの頃を懐かしみながらも、決して戻りたくはないという、相反した思い。現在のわずかな行動力は、その思いのおかげと言っていいだろう。拠り所がそれ唯一というのも情けない話だが、事実、そうした記憶が今の僕を動かしているのだ。

 思いの外時間が過ぎているのを見て、その経過に対して何も思わない自分に嫌気が差す。日課のようなものは持っているけれど、それは日課というほど微笑ましいものではない。言ってしまえば執念みたいなものだから。そしてその執念は、どす黒く汚れている。

 部屋の扉を静かに開けて、廊下に出る。なるべく足音を立てないようにゆっくりと階段を降りる。出来れば家人の誰にも会いたくない。会えば会話をしなくてはならない。それは家族という集団の中にある義務みたいなものだ。無視をすることだって出来ない事はないけれど、それをしてしまえば、いよいよ切り離された、という恐怖を感じてしまう。鬱陶しいと思いながら結局は家族に養ってもらっている身なので、蔑ろには出来ない。そんな浅はかな打算を、家族だから、という聞こえのいい括りにしてしまうあたり、自分の底の浅さが知れている。

 靴を履くために身を屈めた時に、気配を感じた。母だろうか父だろうか。俯き気味に振り向き確認すると、なんと両親が揃っていた。

「どこに行くの?」

 訊ねられるだけで、途端に罪悪感が沸いてくる。返す言葉は出てこない。

「行ってきますくらい、言えばいいのに」

 母は明らかに長男に対する態度を決めかねている。親として容赦なく干渉するべきか、可愛い息子として見守るか。その中途半端な態度が、僕をイラつかせ、同時にいたたまれなさでこの場から消えたくなる。

「いつまでもふらしていないで、早く親を安心させようとは思わないのか」

 対して父は分かりやすい。これぞまさしく父親像、とばかりに世間一般的な反応をする。つまり、厳しい。

 そのおかげで、僕は反発することが出来る。弱々しいながらも、言葉を探せる。

「いいじゃないか。僕の好きで」

「お前。いくつだと思ってるんだよ」

 言葉はすぐに尽きる。なにせ相手は真っ当な事を言っているのだ。正論なのだ。その正しさに反論するなんて、出来るわけがない。

「……行ってきます」

 僕が出来るのはその場から退散することだけだった。

「そうやって逃げてばかりいて。親が悲しんでいないとでも思ってるのか!」

 父の怒鳴り声の途中で玄関扉を閉める。ここで僕はすぐに家から離れようとはしない。本当に僕に改心を求めているなら。本当に僕を思ってくれているのなら。その玄関扉はすぐに開くはずだ。人の話は最後まで聞け、とめげずに父は更なる罵声を浴びせようとするはずだ。してくれるはずだ。

 5分は経ったかもしれない。玄関は一ミリも開く様子はなかった。別に落胆はしない。慣れているから。でもどこかで何かが失われていく音がする。それははっきりとは聞こえない。ゆるやかに失われていき、いつか崩れるのだろう。

 向かう場所は決まっている。家にいると息苦しいが、その場所に行くと更にその息苦しさが増す。だけれど僕はそれを欲している。一つの執念がそうさせている。

 川原に向かうまでに、多くの人とすれ違う。僕が特に意識するのは、親子連れだ。特に子どもが小さいと、なおのこと意識は強まる。当時の僕が持っていたものを、その子にも見出すことが出来るからだ。

 すれ違う時に、男の子が母親に褒められていた。偉いね、と。その言葉に男の子は笑顔を咲かせる。充たされる充実感が表情に現れているのだ。その様を見て僕は想像する。僕もこの子のままのように育っていれば。自分の恥ずべき思いに気付かなければ。

 後ろから男の子の上機嫌な声が聞こえる。そうだよ、僕が助けてあげたんだよ。

 その言葉に母親は更に子どもを褒めちぎる。ありふれた光景なのだ。それが当たり前なのだ。でも僕はその母子に、深く暗い感情を炙り出される。

 子どもには罪はない。もちろん、母親にも。悪いことなんて何もしていない。でも、その思いこそが罪なのだ。無知が罪、とまで糾弾するつもりはないけれど、せめて気付いてほしいと思う。数日後でも数年後でもいい。何かの拍子で思い出した時に、その時の自分を猛省してほしい。そう思わずにはいられない。

 川原には、休日ということもあって、幼い子どもの家族連れが多い。しかし多いといっても混雑というわけではない。辺りにちらほら、といった具合だ。それでも平日に比べればずっと多い。穏やかな川だから、遊ばせるにはちょうどいいということだろうか。

 適当な場所に腰を下ろす。目的地には来た。後はひたすら待てばいい。この待っている時間が、僕を一番落ち着かせてくれる。それはとても不健全なものだけれど、安らかな気持ちになれるのは否定できない。おそらく妄想を広げられるからだろう。小さな子どもが、十数年後、僕のようなろくでもない人間になることを、心のどこかでは望んでいるのかもしれない。仲間、とまでは行かなくても、同じ思いを共有出来るのではないかという想像は、それだけで僕を落ち着かせてくれる。

 ここにいる時は、妄想と想像が手伝って、過去の自分を振り返っても、そこまで痛みは覚えない。あの頃は良かった、と明確に断言する事が出来る。なんでも出来た、なんにも知らない、当時の僕。

 あの時。僕の人生の転換点となった叔父。その叔父はもういない。僕を助けた数年後にガンを患って亡くなった。その時の僕の憤りといったらなかった。勝手に助けて勝手に植え付けて、そうして勝手に死んでいく。揺らぐことのないヒーローとして。

 ここ数年は親戚の集まりに全く出なくなったけれど、顔を合わせれば必ず言われるのだろう。そうして必ず締めくくられるのだろう。せっかくの命なんだから、恥ずかしくないように生きなきゃね。

 僕はどんな感情を抱けばいいのだろう。そんなの決まっていた。それなのに、僕はそれを素直に受け止める事が出来なかった。きちんと芽生える事が出来なかった。

 子どもの声が聞こえて、我に返る。その方に目をやれば、小学校に上がる前か上がったばかりくらいの男の子が一人で川を眺めている。その表情は落胆に沈んでいて、今にも泣き出しそうだ。男の子の視線は川の流れに沿っている。立ち上がって見てみると、ボールが流されているようだ。

 男の子の存在に気付いているのは、僕だけみたいだ。男の子は諦めきれないとばかりにボールを追いかけいく。その必死さは、どうしてか叔父と重なった。その光景は見ていないはずなのに、叔父の背中を見ているようだった。

 炙り出されていた深く暗い感情が、煙となって僕の全身を包み込もうとしている。誰も男の子を気にしていない。今ならやれるかもしれない。

 それは何のために? 当時の僕と同じ状況にして、僕は何を望んでいる? きっとそれは執着だ。男の子の生命への賭けだと言ってもいい。運が良くて助かるのか。運が悪くて助かるのか。どちらに転ぶのかを僕は見届けたいのかもしれない。運が悪くて助かった僕は、この目で確認したいのかもしれない。不運に救われることを願っているのかもしれない。

 男の子に近寄る。暗い感情がどんどん膨らんでいく。あと少し手を伸ばせば届くという距離で、女性の声が聞こえた。

「こら、危ないでしょ!」

 その声は男の子の母親だった。ゆっくりと男の子に近づいていた僕と違って、駆けて男の子の元に行く。抱きしめるように、男の子の動きを止めた。

「だって、ボールが」

 男の子は、母親が自分のことを心配してくれていることなど知らずに、ボールの行方を気にしている。甘えられる存在が現れたからか、涙を浮かべようとしていた。

「それよりも、落っこちちゃったら大変でしょ」

 母親は男の子の手を握って立ち上がる。その場を去ろうとする母親に、男の子は後ろ髪引かれる思いで、首だけはボールの流れを見ている。

 そんな男の子を見かねたのか、母親は優しく話しかける。

「分かった。流れちゃったボールは諦めよう。また新しいの買ってあげるから」

 男の子の目の色が変わる。嬉しさのあまり顔を綻ばせる。そこまで見ていて、景色がぐにゃりと歪んだ。

 諦めよう。新しいの。買ってあげるから。あげるから。私が買ってあげるから、また。

 気が付いたら母親の前を塞ぐように立っていた。怪訝な表情を浮かべる女。ガキは状況が分かっていないのか、クソみたいな母親と僕を交互に見ている。

「あの、なにか――」

 最低な女が何かを言い終える前に、僕は拳を彼女の頬に打ち込んでいた。





 彼はヒーローに憧れていた。心に秘めないその憧れは、取り巻く環境の良さのおかげもあって、彼はまさにみんなのヒーローになっていた。

 弱きを助け、強気を挫く。正義感は人一倍。下級生には優しく接し、時には横暴な上級生に取っ組み合いのケンカをすることもあった。彼の担任の先生はケンカをするのは良くないと思いながらも、その真っ直ぐな性格は、大切な個性として育んでいかなければいけないと思っていた。だから先生も、彼には特別に目をかけていた。

 親の期待にもきちんと応えていた。言われたことは守り、言われなくても率先してお手伝いをする。彼の抱くヒーローは、そういった身近な所から生まれると思っていた。そして同時に得られるものもあった。

 褒められる。彼は褒められるのを何よりの喜びにしていた。それこそ最初の頃は抱いていたヒーロー像も、褒められることの嬉しさを覚えて、気が付けばその喜びのために動くようになっていた。

 僕が良い事をすれば、みんなが褒めてくれる。

 偉いね。助かるわ。すごいすごい。気が利くわね。母親からそう言われる度に、彼は弾ける笑顔で応えた。その笑顔は更にみんなを幸せにすることを知っていた。いつも明るいと母さんも嬉しいわ。

 彼の素行の良さは何も家庭内に限らない。近所でも評判の良く出来た子、だった。時には近所のおばさんは、自分の子と比較して、彼を褒めることもあった。

 ウチの子と違って偉いわね。ウチの子に見習わせなきゃ。ウチの子は駄目だわ。

 その話のほとんどは、彼に直接ではなく、母親を通して聞かされた言葉たちだ。彼はそれらの言葉を噛みしめた。噛みしめて、噛みしめて、何度も頭の中で再生させたりもした。

 彼は喜びの絶頂にいた。何をしても褒められる。それも、そんなに難しいことはしていない。食器を運ぶとか、家の掃除とか、おつかいとか、そういった細々とした、言ってしまえば誰でも出来ることをやるだけで、褒められる。そうやって手に入れられる、簡単な自助努力で手に入れられる喜びに、彼は酔いしれていた。

 そしてその喜びは、人と比較された時により爆発的に大きくなることを彼は知った。それにより、彼の素行は一層、良いものとなる。

 授業中には率先して挙手をするようになった。休み時間は新しい遊びを考案して広めた。みんなが嫌がる掃除も、平気な顔でした。それによって、彼はより多くの喜びを得られるようになった。比較される喜びを。

 皆も見習いなさい。皆があなたのようなら先生も楽なのに。本当に偉いわね。今年の5年生の中で一番よ。

 比べられる喜びの正体が優越感であることを彼は知らない。そもそも優越感、という言葉さえも知らない。でもそれで得られる一人ぼっちの全能感は、その快感は、しっかりと得ていた。味をしめていた。

 5年生の夏休み。家族と叔父叔母、小学一年生の従兄らと共に海に行くことになった。彼の喜びは既に溢れんばかりになっていた。ここまで来ると優越感の扱いは上手くなっていて、その瞬間を想像するだけで、優位になれた。お手軽に得られる快感になっていた。

 彼は泳ぐのが得意だった。対して小学一年生の従兄は海が初めてで、話によると水を恐がるらしい。こうなるともう、優越感は約束されたようなものだった。比較の相手が幼かったとしても、彼の優位性が損なわれることはなかった。むしろ、自分が小学一年生だった頃のことを引き合いに出して、一人愉悦に浸っているくらいだった。

 それに、一緒に来る叔父も、彼をよく褒めてくれる親族の一人だった。家も近いので、事ある毎に彼に会い、その度によく褒めてくれた。

 叔父にも自慢しよう。僕の泳ぐ姿を。そう思って来た海水浴だったけれど、叔父をはじめ大人たちは皆、パラソルの下で、お喋りや飲食をしているばかりだった。従兄は水を怖がって叔母から離れない。彼は一人残される形になった。

 相手にされないことほど、彼にとって辛いことはない。彼は比較のある喜び、優越感を何より味わいたいと思っているからだ。

 彼は大人たちを、特に叔父を、海に入ろうとしつこく誘った。そのしつこさが目立って、それを注意されたりもした。ほら、叔父さんも困っているでしょ。

 それを言われて彼は酷く傷ついた。褒められ慣れているから、傷は些細な事でつく。

 よほど落胆していたのだろう。叔父は彼を海に誘った。

「浅い所で遊ぼうか」

 彼はその言葉に食いついた。そして同時に疑問を口にした。どうして浅い所なの。

「それはな」

 叔父さんはバツが悪そうに言った。

「いい歳してなんだけど、泳ぐのが苦手なんだ」

 それを聞いて彼は、それはなんと幸運な! と優越の神様に感謝したくなった。もちろん、当時の彼にはその意識は無かっただろうとしても、でも、確かに彼は優越感を何よりも欲していたので、大人の叔父さんよりも出来る事がある、というのが何にも代えがたい喜びとなった。

 彼ははりきった。遠いところまで泳いでやろう。叔父さんが行けないような、遠い所まで! 

 叔父の言う事を無視して、彼は浅瀬を軽く泳ぎ越えて、まるで足のつかない水深のところまで泳いで行った。

 彼は立ち泳ぎのまま、叔父に向かって叫んだ。

「見て! 叔父さん! 僕、こんなに泳げるんだよ!」

 叔父は遠くで小さくなっている。果たして叔父はちゃんと見てくれているのだろうか。僕の事を自慢の甥っ子だと思っているのだろうか。

 彼は、自分が思っているよりも遠くにいることに気付く。一瞬、不安が頭を掠めた。その微かな動揺は、小学五年生を怯えさせるのに充分だった。立ち泳ぎをしている足の動きに、変な力を加えてしまう。

 突如襲われる痛み。足が攣った、と思った時には、視界は水の中でぼやけてしまう。助けて、と叫ぼうとしても水を飲むだけ。噎せる。暴れれば暴れるほど身体は沈んでいく。彼は完全にパニックになっていた。死、という恐れすらも忘れて、彼は焦りでとにかくもがいた。身体を動かすほどに、まるで水底に吸い寄せられるように、身体は沈んでいく。しこたま水を飲んで。苦しくて、苦しくて、意識が遠のいていく。

 自分の名前を呼ぶ声がする。ゆっくりと目を開ける。そこには両親と叔父夫婦の顔があった。

 両親から、特に父からは、こっぴどく叱られた。生まれてきた中で一番激しい叱責だったかもしれない。頬も打たれた。それを叔父が必死に宥めてくれた。

 彼は呆然としたままだった。命拾いをした、という自覚は、海から自宅に帰って、なんとはない日々を過ごしていく内に、大きくなっていった。

 叔父の態度が変わった、と思ったのはいつ頃からだったろう。海で命拾いしたその年の年末。いつもは家族親戚揃ってご馳走を囲むので自然と上機嫌になるはずが、それが一向にない。その原因を考えていると、叔父と目が合った。

「よう。もう、大丈夫か」

 叔父は彼に会う度にそればかりを聞くようになった。大丈夫か、というのは彼の具合の心配をしてくれているのだろうけれど、それは、夏に起こった出来事だ。年末に持ちだす話題ではない。

「あの時は大変だったんだぞ。俺は泳ぐのが苦手だったから」

 あの時は本当に良かったわ、と母が叔父の上機嫌を上乗せするようなことを言う。そう。彼が溺れているのを助けたのは叔父だった。叔父は泳ぐのが苦手とは言っていたけれど、全く泳げないわけではなかったのだ。

 叔父が彼を見る。その表情に張り付いているものを見て、彼は目を逸らしたくなった。

「本当だぞ。良かったな。俺が助けてあげて、本当に良かった」

 父に酒を注がれながら、叔父が言う。その顔が、目が、声が、表情が、酔っていた。酒に、ではない。

 優越感に、酔っていた。

 叔父は彼よりも優位に立った。それは彼がどんなに努力しても届かない位置だった。

「俺のおかげで生きられるってことを忘れるなよ」

 叔父は酒が回っているのか饒舌に話す。その時のことを。自慢げに。武勇伝のように。

 実際そうなのだ。自慢していいのだ。武勇伝でいいのだ。それくらいのことをしたのだから。それくらいのことを、してくれたのだから。

 叔父が弁舌滑らかに話している中で、彼はそっと両親の顔を覗きこんだ。両親は相槌を打っている。大袈裟な。何度も何度も拍手をしている。その光景は彼の目に焼きついた。両親は手を叩く。何度も、何度も。笑みを張りつけて。その目はまるで笑ってなくて。相槌を打って、何度でも繰り返す。本当に良かった。本当に、良かった。あなたは命の恩人だ。

 そうして叔父を褒め称えている様を見ていると、一瞬だけ、二人と目が合った。その目は言っていた。何も言わなくても語っていた。

 彼は二人からすぐに目を逸らした。本当は何も言っていない。だけれど確かに、彼には聞こえた。その喜びの声の裏返しに、纏わりつくような卑しさを、確かに、彼は感じていた。

 叔父の武勇伝がひとしきり終わって母がその場から立ち上がり、台所に向かった。お酒を足しにいくのだろう。どうしてか、彼は母親についていった。さきほど感じた視線を、無かったことにしたかったのかもしれない。ちゃんとした言葉で、否定して欲しかったのかもしれない。

 冷蔵庫からビールを取りだしている母。その母に声を掛けようとしたら、既に気配を察していたのだろう。母は、彼の名を呼んだ。呼んで、言った。

「拾ってもらった命のようなものなんだからね」

 母はそう言って、彼の方は見ずに、酒宴の席へと戻っていった。

 叔父が、彼を助けたことを恩に着せて多額の借金を申し込んでいたと知るのは、叔父がガンで亡くなったと知らされた時だった。その時彼は中学生になっていて、その話を聞いた時、改めて母親の言葉を思い出していた。

 叔父は彼から優越感を奪った。同時に、優越に浸っているその醜い顔を、知ってしまった。以来、彼は、内気な性格へと変貌する。言葉数も少なくなり、学校での存在感も日に日に薄くなっていった。

 彼の心境の変化を知る者は、誰もいない。





 僕は女を殴り続けている。何度も、何度も。

 諦めなさいと言った時に、両親の顔が浮かんだ。

 新しいボールと言った時に、弟の顔が浮かんだ。

 買ってあげる、と言った時に、あの頃の僕の顔が浮かんだ。決して自分では見られないはずなのに、その顔ははっきりと分かった。ひどく醜い顔だった。

 子どもの泣き声が聞こえる。女には馬乗りになっていた。女の顔は腫れ、かろうじて息をしている。

 遠くから聞こえてくるサイレンの音。その音がどんどん近づいてくる。

 そういえば、と思い出す。小さい頃の将来の夢。

 僕は、警察官になりたかったのだ。皆を守る。憧れられる、警察官に。

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