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短歌に就いて

 2018年の冬、先生から短歌をやれ。定型を学べとご指導賜ってから、2023年05月31日まではとにかく短歌だった。
 問われれば趣味は短歌と豪語し、胸を張り、笑われた。殺してやるとのたうちまわり1年間短歌を書き続けた2019年の冬、以下2首で先生から合格をいただく。
>砂丘で落とした声をいつまでも掘り起こすのが君の仕事かい
>母の脚治ります様願をかけ火をくべる放火魔の証言
 どのように思いついたのか全く思い出せない。何故合格なのかも教えて頂いていない。ただ、短歌を辞めてよいとは言われてなかった。続けろ、と言われている気がした。

 先生に短歌を届ける日々は終わった。焼け野原でさてどうしたものかと佇んでいた頃、とある方の歌集に出会う。仔細は省くがそこからは賞レースへの挑戦の日々となった。流行り病が流行し始めた時だった。
 文学部の出でもなく、働きながらひたすら一人で書き続けた。歌会の誘いなどあるわけもなく、ひたすらにインターネットに書き殴る日々。時たま投稿サイトでこの作者はあたおかであるとの評をいただく。ディスプレイの文字をぬるいビールで流しこんだのを覚えている。賞へ応募、落ちる。の繰り返し。気が触れたのか年末には何故か一万字の戯曲を書き上げていた。バランスをとりたかったのかもしれない。
 2021年。時世は変わらず、仕事は十全。短歌はふるわず。この辺りから相談できる方に出会う。ログを洗うと幸運にも応募の前に評を頂いていたりした。まったく生意気な過去の私に腹が立つ。ああ、そう。この頃に感銘を受けた歌集の二つ目に出会う。二つしか持ってないのですが。ですがでは無い。
 突然、賞に落ちる。落ちるのはいつも突然だ。ふざけている。返して欲しい。何を?
 ハァ、私家版でもつくるかと突然歌集を自費出版する。夏であった。誕生月にわたしは狂う。
 もう売ってないのだけど。久方ぶりに読み直して良い一首があったのでここに引用することを許してほしい。
>堕ろしたての生活だがふれられるこんなにもきもちがいい罪は
 あゝ未来のわたしが重大犯罪を犯してこの私家版歌集が史料として残らないのを祈るばかり。時空警察にも天下りが跋扈していて。
 2022年。記憶が無い。アーカイブを確認すると月に平均して50は短歌を書いていた。箸に棒にもな賞レースのアプローチに限界を感じ、短歌1.0と銘打って短歌用の人格を作り始めた時であった。
 戯曲を書く時と同じく、登場人物が練り上げられてゆくと、一つの事象を何人かの視点で短歌として捉えられるようになった。戯曲の時と違うのは、この人格たちは消えないということだ。
 戯曲、脚本の類は完成すれば登場人物は頭の中からさようなら、で良いが、わたしの試みている短歌には終わりが無い。賞レースで予選を突破した人格などは捨てられなくなった。生活の10%程度が常に短歌に侵食されていた。
 流石に前頭葉が悲鳴を上げ始めたので、とある短歌賞に応募することを一つの区切りにすると決めた。
 2023年、初夏。そこでお別れだ。
 今年の年明け、短歌2.0を思いつく。何も難しいことはしてない、どこかで書いてあるようなやり方である。でも一人で闘うにはそのような銘は意欲の維持に必要なものであった。生業は繁忙を極め、毎朝地獄の釜を開けたる気分であった。撤退戦であり電撃戦であり塹壕戦であり空中戦だった。通勤時間でのみ短歌を書くようになり、電車の事が多くなった。わたしの景色はJRの窓からの実景ばかりになっていた。それでもなんとか、4人で作り続けた。
 そして、つい先日、最後と決めた賞レースに応募を終えた。よくしてくださってる方々に、成果物を添えてご報告した。
 その中のとある方が、この歌がよいですと教えてくださったものがある。それは奇しくも、わたしがその人のことを考えながらつくった短歌であった。
 わたしは短歌を始めた頃より、どうも不純というか、短歌にお邪魔している余所者のような気分があった。なるべく「短歌を詠む」ではなく「短歌を書く」と日記に記してきた。電車の車窓から仮の人格で連ねた言葉は、間違いなくわたしの実景ではあるのだけれども。
 ああ、そう。その人から其れを伝えられた時、わたしは初めて短歌を詠んだんだなと思ったという話だ。
 いや違う。違うな。それは終わりにふさわしく無い。
 今までわたしの短歌にお付き合い頂いた方々、本当にありがとうございました。気が向けばまた書くかもしれませんがお休みです。
 それと、最期まで付き合ってくれた三人の人格もありがとう。次は。次は。次の小説でまたお会いしましょう。三人とも。

短歌と掌編小説と俳句を書く