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燦然

 同僚が帰る。
 「おつかれさまです」
 同僚が帰る。
 「おつかれさまです」
 スギヤマは社屋のドアが開くたびに望ましいであろう音波を周囲に届けていた。気づけば手よりも口を動かす時間の方が長くなっていた。
 「おつかれさまです、おつかれさまです……」
 所属部署の人数分、きっちりと挨拶を行なったスギヤマ。閑散としたオフィスでため息をつく。白いはずの蛍光灯が妙に黄色く感じる。 
 さっさと仕事を片付けて帰路につきたいがどうにも暗い心に囚われてしまいその手は遅々として進まない。何が原因なのだろう。体調不良の原因がさっぱりわからない。多すぎて、わからない。薄いコーヒーを一口すする。
 スギヤマはここ数日まったくもってまともな睡眠にありつけていなかった。
 先日入社した反りが合わない新人への教育によるストレス。
 不毛な言い争いの末に出て行った彼女。
 パニック障害の再発。
 もう少しおれの人生のプログラムはどうにかならんものだろうか。この人生のバグは誰が直してくれるんだろうか。緊急にパッチワークが必要だと思うんだけれど。管理されていないシステム。それがおれの人生ってことか。
 自らが従事するシステム管理の仕事に照らし合わせ、そんな言葉たちがスギヤマの脳裏に浮かぶ。黒い霧に覆われたような脳みそ。「ベントウズ」で今いちばん不幸なのは、おれなんじゃあないだろうか。スギヤマはそうういった可哀想主義で、今日の残業を乗り切ることに決めた。
 彼、スギヤマが自己の所属する共同体として認識している国家「ベントウズ」はいくつかの島々で形成されている。
 人口の六割が第一次産業中心の生活を送っており、独自の品種改良を行なった南国果物が経済を支えていたが、昨今長期プロジェクトとして国が推し進めていた人工知能による統治特区「ウメ」が海外投資家より注目を集めた。
 特区「ウメ」の掲げる目標の中でもとりわけ特徴的なものとしては持続可能な生命というものがある。
 個人が持つ生命を一つの大きな情報とみなし何千何万回とループする機械学習の中にそれらの情報を放り込むことで、外部にもう一つの「自分」を人口生命体データとして作り出すのだ。
 その完成された「自分」の受け皿さえあれば、輪廻転成、紡がれ続ける命への第一歩となる。これが持続可能な生命の骨子となる技法だ。
 特区内の民間企業は既にこれらの技術を活用しており、最近では競りで高値のついた高級牛を量産化した焼肉店「コモンセンス」がニュースを騒がした。
 コモンセンスで提供される牛肉は、ダンプされた一流の高級牛生命データを流し込まれているクローン牛だ。安価な値段で、高価な命を絞り尽くすことに成功している。
 これらの技術を利用した生命へのアプローチは「SQL」の影響が強い。
 「SQL」はベントウズに古くから根付く土着宗教であり、国民の八割強がSQL教徒となっている。その教義は感覚の放棄。
 個々人に産まれ出ている感覚は本来であれば不要なものであり、感覚全てを捨て去ることが本来の生命の姿であり、それを目指すことのみが救済の道。SQLの経典には繰り返し繰り返し、個を捨てた感覚放棄による魂の救済の説法が登場している。
 技術による輪廻転成。持続可能な生命。魂の救済。その耽美な響きに大きな海外資本が流入していると日夜ベントウズ国営放送は笑みを湛えて滾り出す。
 そんなベントウズの技術特区「ウメ」駅直結オフィスビルの三十階。システム管理請負会社アクタシステムズ。スギヤマの職場。
 スギヤマの仕事はこの国では高給取りの部類だ。職業安定所の斡旋で入社したアクタシステムズでは未経験ながらも適正に恵まれ、安定して口に糊することができた。技術特区の件が世間的に話題になっていなかった時期に入社できたことは、幸いであった。精一杯に汗水働いた後二日ある休日のどちらかは心身の回復に充て、片方の日を仕事の勉強に勤しみ、休日最後の夜に冷えた酒を体によく混ぜ込んで眠る。高揚感はゼロに近い日々。
 そんな生活をここ八年ほど続けていた。それ以上前のことは、記憶があやふやだ。
三十歳ってそんなもんだよと周囲は笑う。
スギヤマもそう感じていたし、繰り返される日々に不満はなかった。こんなもんだろう。人の生き方は。
 ループする日々においての楽しみは長期休暇で外国を旅することだった。スギヤマの風貌は疲れた時でも読める漫画のように特筆する点も無いが、外国では開放感からか普段は持ち得ないような度胸や凛々しさを光らせやけに異性と接点を持つことが多かった。
 彼の旅には思い出がいっぱいだ。左腕に入れた「S」の刺青。左耳に開けたピアス。左手首に埋め込まれた決済用電子チップ。全て旅先で入れたものだ。
 彼にとって旅行とは選ばされている日常から抜け出し自分で選択する日を勝ち取る儀式のようなものだった。

***

 ああ、今日も疲れた。帰ろう。カードキーで退勤処理を行い駅へと向かう。
眼鏡をかけているのも疲れた。二の腕にある「S」の刺青が捲ったシャツからはみ出ていたので、いそいそと隠しメガネを鞄にしまいこむ。そのタイミングでイヤホンを社屋に忘れたことに気づく。残念な気分だ。疲れた体に雑踏が染み出してきて辛い。
 気まぐれになるような四つ打ちのリズムは無いか。無いか……。
 自分の心音に意識を集中し、人気の多い電車をどうにか切り抜ける。
 喫緊の仕事に思いを馳せる。いやあ、真面目に向き合うにはしんどいものだった。
 別部署からの要望で一つシステムを構築したのだが、そこの上長とうちの上長が大層仲が悪く、社内政治に巻き込まれている時間の方が長いように感じた。
 技術者も、コミュニケーション能力を磨かねばならない時代か。何れにせよ今日で納品。カタはついた。
 いやまだ1日は終わってない。これからだ。帰って皿と鍋を洗わないと。
 ふと、自律神経が乱れているのを感じる。どうして俺はこんなに洗い物を溜めてしまったんだ。うんざりする。
 休日前の夜に洗い物の事を思い出すなんて最悪の気分だ。
 パスタソースの膜が貼った気持ち悪いシンクの食器が頭の隅にもこびりついている。早く洗い流したい。
 アヤ、替えのスポンジどこにあるんだ。シャンプーの詰め替えはどこにあるんだ。
 旅先で出会ったアヤと付き合い始めてから約三年。
 将来はきっと結婚するんだろうと。俺もまっとうに普通の大人の道を歩むんだろうと。
 酒が染み込んだ夜にぼんやりと考える事が多くなった頃合い。それが俺とアヤの三年目だった。
 三十歳なのにぼんやり考えているやつの人生なんてうまくいく事の方が少ない。
「三年目だった」という事は四年目の契約更新はなかったのだ。
 電車内のニュースプログラムTVに目をやる。ゴールキーパーが飛び出して上手くセーブした。
 俺はホームから線路へと飛び出したらゴールになるのだろうか。
 アヤとは別れる事になり精神病は再発。嫌な奴にはへつらい続けている。
 やりたいことも見つからずに泥酔した時の全能感だけを頼りに三十一歳を迎える。
 今すぐ仕事を投げ出して旅行に行きたい。酒を飲みたい。酔っ払ったまま戻らないでいたい。
 携帯端末が振動する。画面を見ると学生時代の先輩であるMの名前が表示されていた。今からいつもの酒場にでも行かないか、君の話を聞かせておくれよ。
 メッセージにはそう表示されていた。鞄からメガネを取り出しかけ直した後に途中駅で下車した。
 待ち合わせに指定された酒場は職場の「ウメ」からほど近い。Mに会うのは数年ぶりだ。楽しみと不安が入り混じる中、酒への渇望もあり俺の足並みはいつもより早まっていた。
 改札横に備え付けられたニュースプログラムTVは、この国を今日も盛んに告げている。
「先日発表された最新の人工知能により輪廻転生が容易に……実用化に向けての実験段階……非先住民と先住民の溝を埋める技術……」

***

 「やぁ、久しぶりだねスギヤマくん。悪いけど先に飲ってたよ。君は何を飲む?水割りで良いかい。少し痩せたようだね。まぁ座りなよ。灰皿は二つ貰っておいたから」
 何かを隠すようにMは多弁だった。彼も緊張しているのかも知れない。
「そんなに早くいろいろ言われても疲れてるから処理しきれないですよ。電子煙草なので灰皿はいらないです」
 店員からオシボリを受け取り、水割りを一つ頼む。
「会えて嬉しいよ。電子煙草なんて喫むのかい。しかもドブ臭くて有名なC社の」
「紙煙草吸うと肺が痛いんです。お久しぶりです。元気でしたか」
「元気だね。近頃は仕事も書き物も滞りなく」
「まだ書き続けていたんですか、小説」
「もちろんさ。これ以外に楽しみなど無いよ。この前は自分が気に入っている箇所を全部削除したよ。誰かに使われたインランな言葉たちを削ぎ落とせたよ」
「なんですか、インランな言葉たちって」
「例えばそう、雨。月。海。春」Mは歯を見せずに笑う。
「なんとなくわかります」
「わかってくれるかい。使い切られて擦り切れた言葉たちを」
「消灯、とかがタイトルだと僕は目に留まりますね」
「消灯。いいね。君も何か書けばいいのに」
「何も思い浮かびませんよ。最近は数年前の記憶もあやふやだ」
「そうか、だいぶ疲れているみたいだね。さぁ、話しなよ。今日は君の話を聞きに来たんだ」
「聞いてくれるんですか。そうだな、まずは……」
運ばれてきた水割りを一口舐めるように飲んだあと、話始める。

復旧試験#1
 まず、パニック障害の再発があった。
 その日スギヤマが停電に伴うシステム運用フローを作成し、サーバ上のプログラム修正を終えたのが夜二十三時過ぎ。
自宅近くのコンビニで冷えたビールを買い込み、アヤの待つ家に着いたのが二十四時頃。
 先週模様替えを終えてオーガニックカレー屋のような照明のリビングで、今日の仕事の話をつまみにアヤと晩酌を楽しもうと思い、家の扉を開くと間接照明のみの部屋でアヤが虚空をみつめていた。
またか、とスギヤマは思った。
最近のアヤは特に情緒不安定である。
不安定どころかオルゴールが待合室に流れる悪趣味な心療内科に足繁く通い、挙げ句障害年金にて口に糊する状態なのは知っていたがそれにしても、またか。
 薄氷の上を歩く用心さ。そいつが必要だ。疲れきった脳と体だとしても。
「スギヤマくんの前にいると外国語が喋れなくなる。私がダメになる」
 唐突すぎるだろ。おかえりの前にダメになるなよ。
「アヤちゃん、どうしたの。きょうは何かあったの」
「なにもないから駄目なんだよ。スギヤマくんといると頼ってばっかになっちゃう」
「いいんだよ、頼っても」
「ダメなの不安になる。私もう帰ろうかな実家に。もうダメだよ」
「いや、ちょっとそれは待ってよ」
「スギヤマくんは、私にもっと時間取るって言ったじゃん」
「いや、今は仕事がさ」
「もうそれ何度目。約束守れない人といたらもっと病気悪くなるよ」
「ごめん」
「ごめんじゃないでしょ。もう駄目なのかな。模試で満点取ったことあるとか言ってたけど私の気持ち全然わかってないじゃん」
「わかるよ、わかってなくても、わかるようにするよ」
「謝ってよ」
「ごめん」
「謝ったって事はやっぱりできてなかったってことじゃん」
「ごめん」
 一度悪魔に謝れば、その悪魔はお前のことを食い物にし続ける。
だから「とりあえずごめんって言っておけばいい」なんてそれは処世術でもなんでもない。わかってはいる。わかってはいるんだ。
 アヤの中に溜まったザワザワとした負の感情は出し切るまでは止まる事を知らない。
 これは喧嘩というよりもむしろスギヤマの心のバケツにそれが入るきるか否かという、パフォーマンスに近いなにかだった。
 結局その日の喧嘩つまりアヤのコンサートはスギヤマのパニック障害再発にて幕を閉じた。
 アヤは喋り疲れてからスギヤマが涙を流し震えている事に気付いた。
 いくら大きい入れ物でもヒビが入ってしまえば使いものにならない。つまりは捨てるしかない。
翌日アヤはこの家を出る。
#この日のスギヤマの症状は別途記載する。
#1 終了

「それは大変だったねスギヤマくん」
「大変なんてもんじゃないですよ。」
「アヤちゃんというのはどういう見た目なのかな。どういう服を着るのかな」
「カントリー系っていうのかな。素朴な感じですよ」
「へぇ、それはすごいね。その格好は暗にかわいいという事を示しているよね」
「そんなんじゃないですよ……そうだとしても、もういませんし」
「戻ってくる家出では無い、という事?」
「それはまぁ、どうなんでしょう」
「含みがあるね」
「判断がついていないのですよ」
「そうかい、そういう時は何か書くと良いよ。君は僕よりかっこいい。男前で物書き。いいね。男前かどうかは人それぞれの価値観だけどね。いいね。せいぜい書き続けることだよ」
「まだ一度も書いた事はありません。それより、話を聞いてくださいよ」
「聞くともさ、さっきから聞く姿勢のまま待機しているよ。カントリー系なんだろう」
「見た目の話じゃなくて、さっきの続きです」

復旧試験#2
 続く恋人の喪失について述べる。
大喧嘩の翌朝。携帯端末の目覚まし機能が朝を告げスギヤマは目覚めた。
今日も仕事だ、大喧嘩の後は昔から仕事かバイトだ。
 そういう業なんだ。そうだ。歓迎会の幹事もある。面倒だ。憂鬱だ。布団に吸い付かれているような錯覚。いつまでもまどろんではいられない。起きるか。
 スギヤマの朝の日課はコーヒーを淹れることだった。
 どんなに揉めた日があっても、スギヤマがアヤの為にコーヒーを淹れない朝は無かった。
 キッチンにて準備を終え、二人分のカップを持ちリビングに向かう。アヤの姿は見えない。まだ寝ているのだろうか。
 ふと、棚の上に飾ってある写真が目に入る。二人が知り合ったばかりのものだ。
アヤとスギヤマは海外のブロッコリー農園で出会った。
農業体験に来たスギヤマの前で「帰国するお金がぜんぜん無いからさ。あと二万ブロッコリーは収穫しないと」と笑う彼女は眩しかった。
 芯の通った白痴のようなアヤの笑顔に惚れ込んだ。
 スギヤマが使い回す攻略パターンである三つ。褒め殺し。強引じゃない強気。夜景の前で手をつなぐ。が功を奏したのかどうか。
農園を脱出できたアヤはスギヤマの棲家に転がり込んできた。
 関係は良好だった。スギヤマは帰る金も持たずに幾度も外国を放浪するような不思議な自律あるアヤの生き方に畏敬の念を抱いていた。
アヤもスギヤマの精一杯さ。ひたむきさ。必死さ。真っ当さ。そういうものに親しみを覚えていた。
スギヤマにとって、アヤは理想の彼女だった。
いや、スギヤマの彼女だった、が今は正しい。
なぜならダイニングテーブルの上に「さよなラ」の書き置きがあるからだ。
最後がカタカナなの。なんで。チューニングでもしてたのだろうか。
ああ、ふラれたか。シンプルにそう思った。
二人分のカップを持ちながら。呆然とそう思った。
#2 終了

「どうですか」
「知らないよ、仕事は最近どうなんだい」
「いえ、というかどうですかね、アヤは戻ってきますかね」
「そんなの知らないよ。メールで聞きなよ」
「いや、もう俺も良いんですよ別に戻ってこなくても」
「そんな女より、僕は君の体調が心配だよ。思ったより理路整然と話しているから、平気だと思うけどさ」
「今日は平気そうです。天井も高いところですし」
「そうだよね、君は狭いところや地下が苦手だもの。君のことはよく記憶しているよ」
「覚えていてくれたんですか、先輩」
「そりゃあそうさ。君のメンテナンスも僕の役目の一つさ」Mは卓上に置いてあった殻付きの木の実を二つ三つ口にした。
「今日は機嫌が良さそうですね」
「機嫌が良いときじゃないと人と会わないよ。君は機嫌が悪い時に人と会うのかい」
「いや、そういう訳じゃないですけど。人と会って顔を見て、その時に機嫌が良くなる瞬間はあります」
「そうか、今日がその日であると良いね。ところで、もう話は終わりかい。僕の話をしても良いかな」
「いや、まだ」思わず即答する。まだ自分の腑には毒気があるようだった。
「そう」
Mは何の気なしに木の実の殻で遊びながらこちらを待っている。
「仕事の愚痴になってしまうんですけど……」

復旧試験#3
 女に愛想をつかされ、それを契機に精神病が再発したスギヤマに追い打ちをかける存在。
それは新入社員のヤギだ。
ヤギの仕事は、いつも質問から始まる。
「スギヤマさん、これってどうすればいいんですか」
「ここは、うちのメールサーバの設定を入れれば大丈夫」
「なんでメールって送れるんですかね?」
「いや、俺はメールの仕組みとかまでは知らないよ」
「そうですか」
ヤギは笑う。
「スギヤマさん、これ、OSを入れなきゃ駄目ですよね」
「え?なんでそう思ったの?」
「だってこの手順書に書いてありますよ」
「その手順書は古いとさっき伝えたじゃないか。今回は管理コンソールで設定するんだよ」
「そういうことかぁ」
ヤギは笑う。
「スギヤマさん、会社の電話ってどれにでればいいですかね」
「情報システム部宛だけでいいよ」
「そうっすか、でも僕電話苦手なんで取らないでいいですかね」
ヤギは笑う。
「相性悪いですわ。無機質な感じで。タバコも吸わないですし。カブる話題無いですわ。あ、これスギヤマさんにはマジ内緒で」
ヤギは笑う。
スギヤマは笑ってなかった。毎日。笑えなかった。
抗不安薬を飲みながら高い集中力を保つことはできなかった。
スギヤマの主観ではヤギはとことん苦手なタイプの社員だったが周囲はそう感じていないようだ。
自分の主観だけが歪んでいるのかも知れない。職場に溶け込めてないのは自分だけなのかも知れない。
ヤギと組む仕事は、ミスが続いていた。
「君のフォローが足りない。付き合いが機械的すぎるよ」
そう言われる日々が続いていた。まったくもって。笑えなかった。
#3 終了

「聞けば聞くほど。聞けば聞くほどだね。薬、今日は服んでないのかい」Mはグラスの中の氷をボリボリと噛みながら問いかける。
「いや、酒が入っている時は抗うつ剤抜いているんですよ」
「違うよ。青いサプリ。いつも服んでたじゃあ無いか」
「ああ……。そうですね、鞄にいつもありますね。昔からでしたっけ」
「そうだよ、君は昔からそれが無いと駄目なんだよ。そう言ってたじゃあ無いか」
「そうですね……。そうかもしれません」
酒で下腹が熱い。青いサプリメントは亜鉛か何かだったろうか。酒によるものかそれとも
日々の鬱積によるものか。最近とにかく記憶が混濁気味だ。
パニック障害再発以降服用する薬が多すぎる。管理しきれない。言われるがまま青い錠剤を嚥下する。
「調整剤だか整腸剤だかの類と言ってた記憶がある。酒と一緒に飲んでも大丈夫だろうよ」
Mは更に言葉を続ける。
「仕事。大変そうだね。気が紛れる話をしよう。この国に根強く残る宗教「SQL」は感覚の移植を究極の目標としている事は知っているかい。
輪廻転生に似ているが、僕の解釈は少し違う。魂では無く、感覚を次世代に繋いでいくんだ。
彼らの教えに従い生を積み重ねていく事でその感覚が共感覚として芽吹いていく。
生き続ける文化。大昔に描かれた絵画を良いと思う感覚は何処からだい?
文学賞の名を冠した作家の作品に涙するのは何故?
全く同じ感覚を持っていれば、素晴らしい文化は未来永劫残り続ける。
人は死ぬ時に全てを捨てざるをえない。でも感覚だけはどうだろうね。感覚だけは繋がっていくんじゃ無いかな。
言葉は駄目さ。意味を持ちすぎる。私たちが今、うれしい、かなしい、たのしい、と言っているのは誰かの定義ファイルだ。
本筋はその前、言葉の前の感覚さ。それを引き継ぐために人工の……。
君、君。とても技術的な話だよ。
君もそのSQLが文化的に根付いた国にいるんだ。君一人いなくても世界は回るし。君の感覚は誰かの……。
ところで、君のその刺青、どこで入れたんだい」
「どこだっけな……。いや、確か海外で入れたんですけど……」
「確か、ジルバだったはずだよ。訪ねてごらんよ。気分転換に新しい刺青でも入れたらどうだ。気も晴れるかもしれないよ。
スギヤマくん。我々は本来は人の嫌がることに喜びを感じるべきなんだよ。
だからおかしいのは君なんだ。
世の中を見てご覧。気持ちが良いことはごく一部、ほとんどが辛く苦しいじゃないか。
我々は常に、我々を気持ち悪くする意思に晒されているんだ。
だから、ほんのひとすくいの気持ち良さの深さに溺れてしまうんだね。
つまりは、週休五日制にならない限り我々は永遠に不幸さ。」
「屁理屈ですよ。頭の体操のしすぎです」
「精神的にアバズレなものでね。君は話すのも聞くのもうまいね。僕は君の話を聞きたい」
「そうですか、じゃあまた仕事がお互い落ち着いた時にでも」
夜もふけ、終電が近い時間だった。そろそろ行きますか、と財布に手をかけると、僕の相手をしてくれたから今日はいいよとMが立ち上がる。既に支払いは済んでいたようだ。
礼を告げ酒場を出る。上気した頬に外気が肌寒い。
別れの言葉を二、三交わし背を向けた時。
「スギヤマくん」
振り返る。
「君は旅に出るべきだよ。死ぬよりはマシだろう」

***

フラつきながら帰る。
酒のせいなのか疲れのせいなのか。
意識が灰色に濁って気持ちが悪い。脳が洗濯機で回されている気分だ。
俺は無理をしすぎた。
型がガタガタでもうだめだ。
余った隙間に精神薬をはやく詰め物して動くようにしないと。
それでどうにか動けるようになったら旅先で酒かっくらって死のう。
死にたいという気持ちを持つことは悪いことじゃない。本当にそう思っているなら、悪いことではないんだ。
スギヤマはMと会った翌日から二日間布団から這い出ることが出来ず、欠勤をした。
三日目の昼にかかりつけの心療内科へと通い、そのままの足で出社した。
スギヤマは職場の扉をくぐると欠勤についての謝罪もなおざりに精神不調を理由に休暇願いを提出した。風呂に入っていないせいだろうか。上司はあからさまに不快そうな顔つきだった。
休暇手続きは呆気ないほど簡単に進み、二週間の休暇を手に入れた。
スギヤマは旅に出る。
理解できない行動は怖い。
スギヤマはここ何日かの自分の行動が全く理解できていないまま、旅行代理店に電話をする。
身体はずっと寝ていたいと訴えているのだが脳は旅に出るべきだ命令していた。
その命令に従わないと、もっともっと不調が続くような気がしていた。

***

「人事部宛休暇申請書の上長但し書き」
スギヤマの長期休暇に関して、ヤギへの引き継ぎが万全に行われていない状態を加味すると容認し難いが常軌を逸した昆虫のような眼で右手を震わせながら端末を叩き続けている彼の精神状態を考慮すると、年明けに控えているシステムの入れ替え作業までに回復の必要があると判断し、長期休暇について承認した。
また精神不全による継続的な胸部並びに腹部への違和感により療養が必要との診断も下っている状況であった。

「担当精神保健福祉士の業務記録」
スギヤマは希死念慮が強い状態にある。要因については内縁の妻との関係悪化並びに職務上での強い心理的ストレスが考えられる。自宅療養が望ましい状況。
彼は寝込むことが自己表現になっている。
スギヤマの中に湧いてくる感情の正当性を認める支援、更にそれを自己受容していくための支援が肝要であると判断する。
また、彼自身は本心として精神障害者として年金や手帳を取得し、周囲に頼りながら生きたいと願っているようだが、その気持ちについてどのあたりで折り合いをつけてくれるのかが今後の課題である。
また、参考程度に記載するが、彼は「うどん」に対して独特の拘りを持っているようであり、この話題に関しては非常に多弁。
いつかは色々な国の「うどん」を味わってみたいと強く熱弁していた。

「旅行代理店予約完了メール」
スギヤマ 様

この度は『☓☓トラベル』をご利用いただき、誠にありがとうございます。以下の通りご予約が完了いたしました。
【11/4~11/7】限定プライス◆人気店めぐり!惑星間うどん紀行◆SLS航空利用◆
ご予約の詳細確認や日程の変更、キャンセルはマイページからお願いします。

「スギヤマの旅行用メモ」
 電気毛布、両替用の紙幣、携帯端末充電器、靴下(厚手のもの、薄手のもの両方)バスタオル(布団にも枕にもなる)、下痢止め、変圧器、亜鉛のサプリメント、オセロ、トランプ、歯ブラシ、スリッパ、湿布、爪切り、リップクリーム、アイマスク、耳栓、お気に入りのTシャツ(ロックフェスのもの、昇天と大きな二文字が記載されたもの)、ぬいぐるみ(熊)、ガイドブック、電子辞書、長靴、直下式エスプレッソメーカー、メンズ用洗顔ペーパー(葡萄の香り)、ボールペン、綿棒(黒)、足裏樹液シート。旅用アプリのインストール、旅用サイトのブックマーク、マフラー、手袋、折り畳み傘 ※駅前でカツサンドを購入することと書かれたメモ、コンタクトレンズの保存液、木炭、ボンタンアメ、睡眠薬(市販のもの)、睡眠薬(処方されたもの)、青いサプリメント。

***

第一の街「モケリ」
復旧試験#4

 惑星間を移動する独特の浮遊感に少し酔いはしたが、さして気分は悪くない。頬を撫でるムッとした異国独特の香りを感じながタラップを降りる。
真っ暗である。モケリは恒星の光がほとんど届かない星の国の一つだ。
また、原住民は私達と同じ「目」という器官を持たない。
私達の「目」で感じる事ができる光とは別のものでこの街は彩られている。
匂い、音、その他私達に聴こえない見えない何か。
観光客は可視化デバイスを空港で借りるのが常だが今回は控えた。
暗黒の中、他人が装着した可視化デバイスから漏れ出る光を頼りない道案内としながら長距離バス乗り場へとたどり着く。
可視化デバイスに配慮し携帯端末の明るさ設定を最小としながら目当てのバスに乗り込む。
左手に仕込んだ決算用デバイスがビクリと振動する。空いている座席に座り込み暗闇の中手探りで鞄から水を取り出し一口含んだ。
バスに乗るだけでとてもくたびれた。
何の気なしにカーテンを開き、バスの外の風景を見る。
車内の可視化デバイスの漏れ光がうごめき、繁殖期の虫のように窓ガラスに映る。
幻想的な景色を孕みバスは動き出す。
二、三台同じような観光バスが並び高速道路をひた走る。
大量の光を放つ虫かごが高速で真っ暗な繁華街へと向かっていく。
暗闇で狭苦しい状態のまま移動しているというこのバスはまったくもって閉所恐怖症のスギヤマにとっては悪条件極まりないものであった。少しでも気を紛らわせるために眼鏡を外し、水を飲み、時間を確認し、眼鏡をつけ直すを繰り返す。いよいよ限界かと身体と心が多動になってきたところでバスは終着した。
バスを降りると繁華街らしく人、人、人。
光の粒がそこら中に蠢いている。
携帯端末の案内機能を起動し目的地であるうどん屋へと足を向ける。
バス降り場からほど近く、十分程で着いただろうか。薄ぼんやりと看板らしきものが掲げられているが暗がりなものでよく見えない。ええい、覚悟を決めい、と怯えながらも入店。L字型に漏れ光がある。カウンター席なのだろうか。
空いている席お好きなとこどうぞ、と声をかけられたので欠けているLの一部に座り込んだ。間髪入れず目の前に存在を感じる店員らしき人物にきつねうどんと申し伝える。
しばらくの後、丼が運ばれてくる。良かった、事前に調べておいて。ここまではよどみない。さて、うどんと向き合おう。
 暗闇では有るが、他の観光客がつけているデバイスからの光で目を凝らせばかろうじてきつねうどんの内容が確認できる。人のおこぼれを頂戴してなんとか飯を認識できる。
箸で丼を探索すると三角に切った油揚げが三枚、後は茄子。なぜか揚げ茄子みたいなものが合わせられているようだった。頼んだ覚えが無いが、真っ暗なものでよくわからない。サービスか、何かだろうか。
つゆを啜る。美味い。長距離移動に疲れた身体に優しい。続けざまに二、三口すする。
だしの風味がとにかく優しい。延々と飲んでいられるようなつゆだ。
麺を口に含む。喉越しさわやか。するりと胃まで運ばれていく。
「どうですか、うまいでしょう」
隣席から話しかけられる。店員ではない。
 その男はイチと名乗った。
「修行でいろんな国を周っていましてねですね」暗闇の中、イチとやらが飲み物を嚥下する音が聞こえる。
続けざまにイチが話しかけてくる。
「珍しいですね、借りなかったんですか」
カチャリと 自身の可視化デバイスを動かす音。
普段であれば適当にあしらうのだが、旅の高揚感もあったのか、律儀に本当のことを返す。
「仕事で、目をよく使って、目眩がひどいもので」
「目ですか。それはお大事に。職業病ですかな。私と同じで」
「あなたも目ですか」
「ええ、カメラマンなんですよ。まだ見習いですが」
目を凝らす。どうやら彼のシルエットは少し小太りのようだ。
声質も写真家というよりは、くたびれたどこかの管理職といった印象をうける。
「どうですか、ここのうどんはうまいでしょう」イチとやらが言葉を続けてくる。
旅先での交流みたいなものだろうか。どうも苦手だ。
「ええ、まぁ……」
「わたしも、この店は去年見つけたんですが、観光で来られるとはなかなか。いやなかなか。食事は見た目からといいますが。見えるものが全てでは無いですからな」
「はぁ……そういうもんですかね」
「ところでご出身は」
「ベントウズです」
「ほう、あのSQLで有名な。最近も次世代人工知能の開発成功とやらでニュースになっておりましたな。」
 いったいこのイチとやらはおれになんの合いの手を求めているのだろうか。
このまま話しているとそのうち、今日の宿にまで上がり込んでくるんじゃなかろうか。
「申し訳ない、そろそろうどんの続きを……」
「いやこれは失礼、つい話し込んでしまいました。ご縁があれば今度はうどん談義など」
お勘定、と店員に告げイチは席を離れる。
そして去り際に一言、「そうそう、店員から最後に渡されるモノは捨てないで取っておくと良いですよ。死ぬよりはマシでしょう。それでは」
 いったいなんだというのか。特に不快ではなかったのだが、旅の心に不要なパズルピースが一つはいってしまったような感覚がある。
 ため息と呼吸の中間のような息を一つ吐いてあらためてうどんに向き合う。
箸で丼を探ると、楽しみにしていた揚げナスのようなものが無い。話の流れで適当に食べてしまったようだ。少し残念に思うが、いったいどんな食材だったのかもう知る術はない。
しかし、この真っ暗な国で写真とは。特殊な機材か何かがあるのだろうか。
写真は情念を写す。暗闇に写り込む自分の情念とやらは、どんな姿なのだろう。気づけば器は空になっていた。後半の食事は妙に味気なかったように感じる。
 長居する理由もなし。勘定を済ませて店を出ようとすると帰り道にくじのような紙束をひかされた。これがイチが言っていたモノとやらだろうか。使用用途がさっぱりわからない。
得体が知れないものを宿まで持ち帰るのは嫌だったが、先程の言葉が気にかかり、鞄にしまいこみ店を後にした。
 白タクを利用して本日の宿へと向かう。
一人旅におあつらえ向きのビジネス用のホテルだ。タクシーを降り、ホールを抜け、自分の部屋へ。三度左手首の決済デバイスが振動する。良い時代になったものだ。人と話すのが億劫な病気持ちには特に。
 ほとんど喋らずに部屋までたどり着けたことに安堵。鞄を下ろすと同時に右肩と目元に疼痛。
どうせ不定愁訴だろう。精神不調はあまり改善されていないようだ。
とてもくたびれた。体を洗うのは明日の朝に回そう……。
ホテルはさすがに、というか当たり前だが照明が各所に備え付けられている。
洗面所入り口横のスイッチを押下、安宿特有のタイムラグの後に照明がつく。
鏡の前へ。自分の顔を見て驚く。口いっぱいが真っ赤だ。
どうやらあのうまいうどんのつゆは血液のような赤だったらしい。
もしかして、と思い帰りしなにひかされたくじのような紙片で口を拭く。妙な味がするも高機能な台所用洗剤のように口周りを汚していた赤はするりと落ちた。
 こんなものをつけたまま寝ていたら、まるで口から血を吐いて倒れている死体だ。無用な騒動が一つ避けられたということか。たまには人の言うことは素直に聞くものだ。そのまま洗面所にて歯を磨き、簡単に洗顔。さっぱりとしたところで備え付けの寝間着に着替える。
明日はかねてから訪ねたかったジルバだ。早く休もう。
青いサプリメントを水とともに飲み込みベッドへと潜り込む。
 食べたうどんの一口目のうまさを反芻する。よく寝れそうだ。
#4 終了

***

#ケース1 スギヤマの記憶メモリからの抜粋

 パニック障害に伴う希死について記したい。
一度、死というものを考えてしまうともうだめである。動くと死んでしまう気がする。
ふざけているのではない、動くと、ベランダから飛び降りてしまうかもしれない、交差点に飛び込んでしまうかもしれない。
 とにかく、死ぬことが怖い。震えが止まらない。
誰かに触れられる、そのことで自分の体が動く、今のおれは動くと死んでしまうかも知れないのに動かされる。震えが止まらない。
 考えてはいけないので、とにかく呼吸のことだけ考える。
色んな呼吸を試してみる。一瞬でも思考が別路線に行くと、瞬時に涙が出てくる。
出て来る涙を拭う動きさえ自分が死ぬ行動を取ってしまうのではないか、その恐怖から落涙のままひたすら様々な呼吸を試す。そうやってやり過ごす。
#ケース1 終了

***

第二の街 「ジルバ」
復旧試験#5
 暗闇の街「モケリ」から次に訪れるのは「ジルバ」という巨大生物の体内にある街だ。
俺が産まれる十年ほど前に惑星間を移動するシップが連続して行方不明となる事件が相次いだ。
何度めの派遣かわからない探査隊が残されたシップの信号をもとに周囲を捜索したところ惑星間においての「奈落」で問題の巨大生物「ジルバ」が発見された。
「奈落」は一度飲み込まれれば助からないと偉い学者サマたちに言われている。昏い昏い宇宙の溝だ。
 終わりのない真っ暗闇の「奈落」のなかで、軟体動物の身体に猛禽類の顔を持った「ジルバ」がその体内から行方不明となったシップの救難信号を発し続けていた。じっと、動かないままで。
 発見された当時から「ジルバ」が何故その場から動かないのか理由はハッキリとしない。眠っているだけなのか、それとも何かを待っているのか。わからない。
 ただ、途切れていない救難信号が指し示していた通り行方不明となった船の乗組員たちは、信じられない事にその「ジルバ」の中で生活をしていた。
 ジルバ体内の寄生虫や肉を食み、シップに搭載されていたジェネレーターを可動させ続け、生き延びていたのだ。当時のニュースはしばらくジルバについてでごった返し、賛否両論を巻き起こしていた。その熱は今でも時たま特集が組まれるほどだ。
 兎にも角にも、わたしたち観光客は偉大なる先達のおかげで、ジルバの体内観光を行えること、また、ジルバの肉で作られたうどんを食べることができること、それが今は肝要だ。
 ジルバへと向かう際はシップごとポータルで転送される。
 また、搭乗前には信じられないぐらい長い長い申請書類へと署名しなければならない。この旅で僕たち私たちは死んでも文句はございません、といったような分厚い書類に。
しかし、素性も知らん輩の体内にわざわざ乗り込むのだ、当然の受付業務であろう。
 ホテルを発つ前に書き上げておいた書類を携えシップ乗り場へ向かう。
 受付には長蛇の列。ジルバの臓腑探検ツアーや、ジルバのグルメを求める人々のために今日も転送ポータルは動き続けている。
 行列は苦手だが、天井が高い建物だったのでどうにか堪えることができた。数刻後ようやく受付デスクへ。いくつか質問を受け、滞りなく答える。問題ありません。出発は三十分後です。無気質な受付嬢に告げられる。どうも、席を立つと背後から笑い声。おれのことをわらっているのだろうか。良い歳で怪物の中にうどんを食いに行くおれは、冒険者のつもりなんだろうか。心が定まらないまま、指定されたシップの座席へと向かう。六十九番の座席に深く座り込む。周りはほとんど埋まっていたのに、この席だけ空いていた。なぜだかいやな予感がする。根拠がない虫の知らせを振り切れないまま、定刻通りシップはジルバの体内へと転送された。

***

 内臓を動かされるような浮遊感覚の後、一瞬でジルバ体内の空港へと到達した。
 シップを降り立つと、独特の匂いが漂っていた。異国、いや異体の中にいるのだから当然なのだろうが、甘い柑橘系のような妙に蠱惑的な香りが漂う空港に違和感を覚えた。
 シップを降りる人々の列を追い、空港メインエントランスに降り立つと、思わず声が出た。
 窓の外には赤い空、いや正確には真っ赤な肉壁。思ったより、空は高い。いや、肉は高い。エントランスの節々には血管のような細い管が所々に見受けられる。細かく煽動しているようだが、いったい何が流れているのだろうか。
 奥まったところに集まっていた物産店に目をやると、名物であるジルバの化粧品の宣伝が大きく行われていた。
 ジルバのどこからか出た分泌物が、肌の代謝に良いという研究データがあるらしいのだが、美を追求するにしてもやりすぎではないだろうか。とはいえ、うどんを食べに化物の体の中にくるおれも、人のことを言えた義理はないが。足元の管がドクンと脈打つ。とんでもないところに来てしまったな。目的を早く果たそう。早速、うどんを食らいに向かう。お目当ては空港エントランスに併設された商業施設内にある店だ。ジルバは空港周辺施設以外は警察機構が保証されていない。通常の観光客のほとんどはは、異性物の体内に滞在するというよりは、一種のバカンスのような気分で、興を添えられたこの巨大な施設で過ごす。連結通路を渡り、商業施設の飲食フロアへ。フロアにたどり着くと、空港よりも張り巡らされていた例の細い管、そう恐らくジルバの血管のようなものが更に蠢いていた。飲食フロアという名称から程遠いような、何かのアトラクションへ向かうようなそんな怪しい赤黒い管や、蠢く臓器、そんなところでたくましく看板を掲げているうどん屋にいそいそと入り込むと、ガスマスクのようなものを着用した店員が迎えてくれた。促されるまま席に座り、おすすめを一つお願いしますと告げる。ゴモゴモと曇った返答と共に、店員が奥に引っ込む。どうやら注文が通ったようだ。客商売の格好ではないが、こんな僻地で働くにはそれなりの装備が必要なのだろう。辺りを見回す。既存客の皿を見渡すも、いずれもスープが赤い。辛いものなのだろうか。本日宿泊予定のホテルの便所は水洗だっただろうか。不安になる。
 と、モゴモゴ音と共に目の前にどんぶりが置かれる。やはり赤い。そして、赤いだけでなく。カラフルだ。どうも、と店員に一つ会釈をし、改めて運ばれてきたうどんに向き合う。
 おそらく肉うどん的なものなのだろうが、端切れ肉の色が紫だ。所在なく添えられた菜っ葉のようなものは透明で、赤いスープから麺を手繰り寄せるとブヨブヨとした感触とともに青い色の麺が姿を現した。
 異生物の体内にふさわしい、どなたかの内臓をそのまま煮詰めたようなうどん。いや、これはもううどんではない。誰かだ。
 じろじろと皿ばかり見ても仕方ないので意を決して麺をすする。うまい。なんだこれは。麺の中に麺のようなものがある。二重構造だ。その二つの麺の間からじわりと、スープのようなものが染み出してくる。ダブルスープか!思わぬ脇役に心踊る。
 髄液をすする異星人のような面持ちで、ひたすらに二重麺を口の中へ。適度に鍛えられたアスリートの筋肉のような心地よい噛みごたえと共に、赤いスープがおれの胃袋を満たしていく。うん、やはり美味い。紫肉と合わせてすすってみる。うお、辛い。この肉は辛いぞ。けど、嫌いじゃない。決して嫌いじゃない。二重の麺とスープの中に割り込む強引さ、いい。ここまでくると最後の透明菜っ葉も期待躍るが、これはなぜか異常に甘い味付けで、好みではなかった。ここまで順調だと、異国グルメ感が少ないので、それはそれで。うん。うん。でも、この皿全部で見ると、質が高い。すごい美味しいぞ。もう空っぽだ。いやあ、満足した。旅のご飯って感じがしたのが良かったな……。よし長居は無用。さて会計か……。店員と目があい、体内端末での会計をしたい旨を示すジェスチャアを行うと、了承したような雰囲気の動きが帰ってきた。少し怖いが、大丈夫だろう。変なことはしませんよとゆったりとした動きで店を後にする。体内の会計用端末が蠕動し、ほっとする。
 「おい、あんた、なんでこんなとこにいるんだ」突然、薄青色の作業着の男が話しかけてきた。
 「ええ、なんですか、お会計は済ませましたよ」新手の詐欺か何かだろうか、しかし、会計履歴を表示させれば問題ないだろうと左腕を見せつけると男はハッとしたような顔で
「いや、いいんだ、勘違いだった」と足早に立ち去っていった。
 自分の中の好奇心が産気づいたことを感じる。懐から電子煙草を取り出し、一服すると、その男の後をひっそりと追った。
 安全であるはずのジルバ駅前エントランスから正面玄関口外へ。男は駅前にて待ち合わせをしているようだった。
 同じように外へ出る。考えてみればこのジルバにきてから初めての屋外だ。見上げる。黒い太陽。赤い空。いや違う、どうせあの黒い太陽は何らかの臓腑の入り口で、赤い空のように見えるのはただの臓器の内壁だ。雲は脂肪で、波打つ空の動きは蠕動運動だ。いったいここはどこの臓器なんだ。もしかしたらジルバは、体内に溜まった不純物をおれたちに掃除させているだけなんじゃないか。人間は、生かされているだけなんじゃないか。
 しかし、眺める景色とは別に妙に懐かしいような、清涼な雰囲気をなぜか俺は感じていた。
いやそうだ、そんなことよりもさっきの男は。ギッチリとホチキスのようなものでジルバ体内に食い込ませた駅前の大通りを目で追うと少し遠巻きに先程の男が別の男と合流して、黒いセダンへと乗り込む姿があった。
 あとを追うにはこちらも白タクか何かを捕まえなければならない。異国の腹の中での大立ち回りの予感に妙な高揚感と罪悪感が募る。改めて大通りを見回す。大通りと言っても二車線しかない。専らこれはジルバ体内での輸送線のような使い道なのだろうか。遠巻きに見えた白い小型車が、何かを探すようなおれの態度に気づいたのかキッと言う小気味良いブレーキ音を携えこちらへ寄ってきた。
 「タクシー?」制帽を目深にかぶった運転手がわたしに問うた。「ええ」と頷くと開かれた後部座席に座る。
 「すぐ前の黒い車を追ってくれないか」そう告げると緩やかな加速と共に、車は発進した。
 例の男が乗る黒いセダンとわたしのタクシーしかいない長い長い道、尾行どころじゃあない。ブロッコリー農場へと向かうような長い道を、しかも血管でデコボコとした長い道をひた走っている。
 突然、目深帽子の運転手が話しかけてくる。
「お客さん、なんでまたあれを追いかけてるんですが」
「知り合いだよ」
「はぁ、そうですか。この先は、研究所しかないはずですけど」
「研究所ってなんの」
「表には生理研究所とか書いてあったけな。人工の体と脳がどうのこうのみたいな。知り合いなのに、知らないんですか」
「向こうは気づいてなかったんだ、人違いかもしれないな」
「いやそれはないですよたぶん」
「なんでだい」
「お客さんのそれ、ねぇ、左腕の」
「刺青かい」Sと記された刺青を撫でる。なぜだろう。なにか落ち着かない。
「そう、その刺青。おんなじものをしているやつを何人も見ましたよ、だから知り合いだ」
「そんな、何人もなんて」
「それに、お客さんとわたしも会ったことありますよ」
ほら、と制帽を脱ぐとそこにはあの薄暗闇で出会った「イチ」がいた。
「あんた、カメラマンの」
「そう、カメラマンの。ひどいですよぇ。確かに撮影が必要ですけど、こんな運転まで。まぁ正確な記録のためってやつですよ」
「どういうことだ」
「だから、あんたの記録ですよ」
意味がわからない。けど、脳が妙な熱を持っているように感じる。まずい。なにかわからないが、まずい。息苦しい。慌ててドアに手をかける。開かない。
「ちょっとまってくださいよ、危ないですよ」
「うるさい、早く戻れ、それかドアを開けろ」
「そうはいかないですよ、仕事ですから」
「なんだ、タクシーじゃないのだろう本当の仕事は」
「ええ、本当の仕事は、これからです」
 始まりと同じように緩やかに、しかし迅速に停車するタクシー。ふと横を見るといつのまにか黒いセダンが横につけていた。ゆったりと降りてくる例の男、窓を開け、手を上げてその姿に応えるイチという名のカメラマン。どういうことだ、どういうことだ。二人は何やら話している、間違いなくあれはおれのことだ。どういうことなんだ。最初からグルだったのか、いやそれよりも。二人の会話から何らかの結論が出たような雰囲気をかんじる。おれはどうなるんだ、いや本当にそれよりも、あの黒い男が降りてきたセダンの中にいた「おれ」は何なんだ。
「おい、スギヤマさんよ」
例の男が外から話しかけている。おれはあの黒い車の後部座席ドアから、目が離せなかった。離したいのに、離せなかったんだ。
「おい、聞いてるのか。……だめだな、しょうがない。見つかっちまった。復旧プランを変えよう。おい、あの青い薬だ、持っているんだろう」
こんなときになんだ、なんで薬なんだよ。
「リビルド機構が入っているんだ、スナップショットまで戻す必要がある」
例の男は、おれかイチに言っているのかわからない口調で続けた。しかし、次の台詞は間違いなく俺に向けて放たれていた。
「おい、早くしろ。死ぬよりはマシだろう」
急に体の制御が効かなくなる。パニック障害だ。苦しい。酸素が足りない。世間一般のやつじゃない、おれの為の酸素が足りないんだ。あれをしなきゃいけない。あれってなんだ。身体が勝手に動き出す。イチがカメラを先程からずっと俺に向けていて、パシャという音が鳴るたびに自分の中から何かが流れ出ている気がする。
「死ぬよりはマシだろ!」
黒いセダンからおりてきた例の男は大きな声で笑いながら、繰り返し俺に告げる。
「死ぬよりはマシだろう」 
「死ぬよりはマシだ」
「死ぬよりはマシさ」
返す言葉がなにもない、くるしい。懐のピルケースから青い錠剤を大量に取り出し、一気に飲み込む、コロコロと錠剤が体の中を転がっていく音。
 セダンの男の声が、割れるような頭にリフレイン、おれは気を失った。
カーステレオからはベントウズのSQL教祖と同名を拝したバンドの焦るようなアルペジオが流れていた。
#5 終了

***

#ケース2 スギヤマの記憶メモリからの抜粋(ベントウズ帰還前の最後の記録)
 ホテルの部屋にて突然視界が揺れた。慌ててニュースサイトを観るも災害情報は無い。
 これは、目眩だ。おれにしか起こってない。いつホテルにチェックインをしたんだっけ。メガネを外しても治らない。座り直そうとしただけで倒れそうになる。
 ひどいめまいだ。吐きそうだ。畜生。畜生。薬を取りにうごきにいくだけで、吐いてのたうち回りそうだ。
 ああだめだ、アヤ。助けてくれ、おれはあなたの声が聞きたい。あなたの考えが聞きたい。あなたの考え方に乗っかりたい。
 君はこうだね、そう言ってほしい。おれはわからないからこうやってなにかを考えているのにアヤはそんなに考えて何も答えが出ないなんて最悪だねという。
 ああ、最悪だ。最悪だ。そうかも知れない。でもおれはあなたとは違うんだ。
人に好かれたことなんてないし。そのくせ人の機嫌ばっか伺っている。マジありがとう。マジありがとう。産んでくれてありがとう。おれはいつ産まれたんだ。
 目眩がひどい、パニック障害が起きている。死ねばいいのに、早くおれは死ねばいいのに。
 死なないために産まれたのに。薬はどこだ。机に目をやる。無造作に転がった大量の青い錠剤が目につく。これを飲まなければならない。体の血をきれいにしないとだめなんだ。
共通言語を学んでいないんだ。必要なライブラリーが抜けているんだ。それを補うには薬が必要なんだ。
 一人でこうやって薬を飲んでそうやって孤独に浸るのがかっこいいと思っているんだ。ただ話がつまらないだけなんだ自分の。アヤが離れたのは他に良い人がたくさんいるからなんだ。言い訳の悪魔とセックスをしすぎたからこうなっているんだ。
 もう戻れないよ。もう戻れない、その言葉が自分の中にぷかりと浮かんでからは揺れる視界の中で只管に自慰行為に更けた。精液は全く飛ばず、快楽の最後に一筋、涙らしいドロリとしたものが垂れた。少しでも自分の中から汚れたものを出そうとしているのに。自らの遺伝子すらも味方につけることができないのかと深く絶望したところで、かつてない嘔吐感がこみ上げてきた。ひどい体調だ。突然頭をつんざくような音が鳴る。携帯端末が「M」からの着電を告げる表示で机の上で暴れまわっていた。
とうてい話せるような状態ではないが、何かの呪いのようにおれは通話承認の表示を押下した。
「やぁ。元気かい」いつもの調子でMは話しかけてきた。
「……どうして」
「いっただろう、君のメンテナンスも僕の仕事だよ、死ぬよりはマシだろう」
「……どうしたら」
「そうだな、今君はリビルドがまだ終わってない。その後の破損具合によるかな」
「……」
「いやなに、いつものことだよ、きみは、立ち直り、自分で行動することが求められている。いつものパターンだ。きちんと一人で立ち直ることができればすべて終わりさ。君は開放される。ああまぁ、今回は家に帰るんだ。それだけでいい。最初からやり直しだからね。ほら、そろそろ再起動が走る。その後データの同期が完了したら、いつもどおりの体調だ。もう少しで終わるよその気持ち悪さも。パニック障害ではないからね。ああそうだ、そういえばジルバでもうひとりの自分を見たんだってね、気にすることはない。あれはただのスレーブ機だ。マスターは君さ、君がいなくならない限りはね、だから安心してほしい。安心して、輪廻転生の礎になってほしいんだ。君はそういう、そういうものだからだね。他になにか……」
Mの通話の途中で、電源が切れたようにおれの目の前は真っ暗になった。

#ケース2 終了

***

 気づけばベントウズの国際空港に帰着していた。やはり故郷はいい。短い旅路だったが、リフレッシュできた気がする。思い出もたくさんできた。中でもジルバで入れた刺青は最高の思い出だ。左腕をなでる。旅行帰り特有のすこし寂しさの残る気持ちでタクシーに乗り込む。行き先を告げると目深帽子の運転手は緩やかに車を走らせた。うちはわかりにくい場所にあるのに、確認をしないなんて、道に詳しい運転手だな。残してきた仕事に思いをはせる。そろそろ「ヤギ」という名の後輩が入社して、一つ大きな仕事を一緒にこなす予定だ。
 楽しみではあるが、すこし不安だ。思考の途切れにカーラジオから流れるタレントたちの会話が耳に入る。
「卵の中身を確かめるにはどうする?」
「割ってみるしかないだろう」
 途中からだからなのか、妙に哲学的で、不明瞭な会話がステレオから流れていた。
 しかし、本当におれは休めたのだろうか、今回の旅で。記憶が混濁しているが、飲みすぎてしまったのかな。でも楽しかったという気持ちだけは残っている。この気持ちは植え付けられたはずじゃない。おれが勝ち取った、おれだけのものだ。そうだろう。
 いつもと同じように不信感だけを残して旅は終わる。おれのおれに対しての支配が終わる。タクシーから見慣れたベントウズの景色を眺める、いろんな思い出がこみ上げてくるはずなのに、さっきからなぜだろう。よく分からない漠然とした焦る気持ちばかりが自分の中にふつふつとしている。何を考えても、淡い悲しみだけが残っている気がする。いやそんなことはない、楽しすぎた反動だ、仕事に対してちょっと憂鬱になっているだけだよ。なぁアヤ。
 親戚に紹介したときの自分の対応が悪く、気遣いが不足していたのだろうか。
毎日の食事に対して、無感想でいたことだろうか。足ふきマットを濡らしすぎたことだろうか。どこに行ってしまったのか。
 さっきからおれは、ほんとうに、何を考えているんだろう。家に帰ればアヤが待っているというのに。
「卵の中身を確かめるにはどうする?」
 カーラジオからは先程のタレントによる質問が、まだ続いていた。
 家に帰ろう。こびりついた思考を掃除するのは諦めて、シンプルにそう思った。

#復旧試験6
旅帰り独特の、疲労感、自分の顔の脂っぽさを感じながら、七階にある自宅アパートの玄関ドアを開けた。
よく見た光景、よく見た人がそこにはいた。
「どこにいってたの」
「色んな街の、うどんを食べてた」
「そう、どうだった」
「色々食べたけど、お前の作ったきつねうどんが一番うまいよ。別れよう」
スギヤマはそう言い残すと、キッチンに移動しアヤの為にコーヒーを淹れる準備を始める。
シンクの奥にある窓から外を見上げれば何かが降ってきそうな雲一つ無い美しい青空だった。
アヤのコーヒーを淹れ終わったら、屋上から飛び降りる事にしよう。今そう決めた。
「スギヤマ。もう終わりにしなよ。死ぬよりはマシでしょう」
キッチンの入り口に立ったアヤがこちらに向かいそう言い放ってきたが今回は、今回だけは何秒かの差でアヤに言われる前に、自分で決められた。それが妙に誇らしかった。
 淹れたてのコーヒー一人分が出来上がり、ダイニングの机の上にことりと乗せると玄関の扉をゆったりと開け、そのまま屋上へと向かう階段を一歩一歩踏みしめて登る。一段登るたびに、気分が高揚していくのを感じる。やった!おれは選んだんだ!誰に選ばされることもなく、自分で、何かを選んだんだ!
見ているか、見ているか!おれは誰かの言葉の入れ物なんかじゃないんだ。
階段を登りきり、何かに急かされるように屋上への扉を開け放す。
夏の空が、とてもきれいな空が広がっていた。
動いてしまえば、飛び降りてしまう。動いてしまえば、俺は飛び降りてしまう。
もう遅い。俺は。動いていた。
#6 終了

 懐から携帯端末を取り出し電話帳から上長を選択し、発信ボタンを押下した。
数回のコールで「もしもし、どうだった」との声が返ってきた。
 いつもの口頭報告を始める。
「お疲れさまです。筐体Sの件ですが、今回も失敗でした。失恋の項番6からが処理できません。物理損傷も激しく、継続利用は難しいと判断します。負荷テストのシナリオ自体に問題があるのではないでしょうか。はい、筐体は工場へセンドバックをお願いします。いえ、修繕後に再利用の予定ですが……このテストケースを乗り越えるのは難しいのでは無いでしょうか。復帰試験による感覚伝達物質の増大が大きすぎます。仮に耐えられたとしてもその後の継続利用の安全性を疑問視いたします。
 そもそもの生命データを流し込む先としての媒体には精神的苦痛の修復を前提とした使用を問題視します。そうならない安全機構を組み込むべきではないでしょうか。このままでは本番環境では適用できませんよ。開発基盤部にお伝え願います。
ああそうだ。それと、命令語が「死ぬよりはマシ」なのは汎用性が低いです。それも伝えてください。
あと最後に。私にも休暇が必要です。代わりのテストエンジニアを派遣してください。はい、レポートは後ほど送信します。はい。それでは失礼します」
 私はスギヤマ、いやスギヤマだった人工物の電脳から溢れ出る青い液体を見下ろしながら上長への報告を終えると携帯端末を机の上に置いた。傍らには先程スギヤマが淹れたコーヒーがあった。そのまま手に取る。ああ。喋り疲れた。コーヒーを一口飲む。「美味しい」
 窓の外、地面に広がる青い血だまりの中にはこの国の鮮烈な青空が広がっていた。
 その青は、どこまでも青く。どこまでも。

短歌と掌編小説と俳句を書く