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いとしい座敷童

今の家に暮らし始めて、もう17年と半年くらい。捨てらないタイプの女と捨てられないタイプの男が共に暮らして、捨てられないタイプの子どもたちが育てば、そりゃー家だってものであふれるわけで。

独身のころ実家に帰ると、そこここにガラクタが放置してあって、なんでいつまでも処分しないのだろうと思ったものだったけど。
本棚の古い貯金箱(陶器のキリン)とか、お風呂場で干からびてるおもちゃ(紐をひっぱるとパタパタ泳ぐイルカ)とか。洗面所の古い化粧品とか、庭の使われていない植木鉢とかも。

そうして今。捨てられない人ばかりのうちにも、実家と同じくらいかそれ以上にガラクタがあちこちに放置されていて、嫌になってしまう。

分析するにそれらは、捨てるのに手間がかかるもの(ドライバーでねじを外してボタン電池を抜かないといけないおもちゃとか、中身の固まっちゃったマニキュアとか)と、時間がたつうちに所有権の明確でなくなっちゃったものに分けられる。

所有権が明確でないというのはつまり、子どもが小さい頃に所有していたもので、今はもう自分のものかどうか、本人もよく分からないようなもの。

ちゃおの付録のカラーペンとか(これは捨てていいわ)。

幼稚園のときに仲良しのお友達からもらったお手紙とか(子ども本人はもう覚えてないけど、勝手に捨てるのもはばかられる)。

いつかの夏休みに本屋さんで、ねだられて買った蛍石とか(これはいらないなら、もらっちゃおうか)。

クローゼットの中からひょっとこり出てきた、新生児のころの靴下の片方とか(なぜここに)。

古いものには神様が宿るっていうけど、子どもが育ったあとのそれらは、なんだか座敷童みたいだな。
子ども時代を通りすぎていっちゃった、赤ちゃんのころの君ら、幼児のころの君らの、切れっ端みたいなのがちょこっとだけ残っているんだよなあ。

わが家の愛しい座敷童たちよ。

これ別に、片付けができないいいわけじゃないよ。


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