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エッセイ「30代、季節に咲く花とSex And The City」

仲の良い同僚に言わせるとわたしは「コミュニケーションおばけ」らしく、確かにこの十数年、持ち前のコミュニケーション能力だけを切り札に、やっとこさ仕事をして来た感が否めない。そんなんだから仕事中は「いつ化けの皮が剥がれるか」という謎のヒヤヒヤ感が、実はずっと消えなかったりする。

仕事をしていない時のわたしは、ただの堕落した人間で、休みの日は基本昼まで寝ているし、掃除機も洗濯も平気で1週間しない。今でこそルンバが働いてくれているが、掃除機は特に嫌い。家事の中で群を抜いて嫌いで、ヘッドの部分が部屋の幅木にゴツンゴツンと当たる感じが、なんだか、本当に嫌いだ。

そのくせ子供みたいにお菓子やアイスが大好きだし、予定のない金曜日の夜はカップ麺とチューハイだし、小説を書くことは大好きだけれど読むのはマンガばかりで、部屋には会社のエライヒトから勧められたビジネス本が、積み上がったままその高さを数年変えていない。茶碗洗いもトイレ掃除も、YouTubeやApple Podcastを起動させ「えいや!」と気合いを入れないと取り掛かれないし、家事の完成度がいつまでも分からない。時折流れてくる掃除のストーリーなんかを観ると「ほええ〜、みんなこんなちゃんとしてんのかぁ」と驚嘆する。最近の家事のお供は「ハライチのターン」で、同世代ゆえの話題や、なんとも言えないゆるさが心地良い。

「みんなそんなもんだよ」と、色々なひとに慰められるのだけれど、尊敬する先輩や上司はそんなダメな部分をおくびにも出さないので、漠然と「わたしもちゃんとしなきゃな」という気持ちになり「いつ化けの皮が剥がれるか怖いな」というヒヤヒヤ感につながる。社会人になって久しいので、社会的な立場は一応はあるが、それでもわたしはいつまで経っても不器用で、そんなに賢くもないので特筆すべき成果などはまるで無い。そもそも特筆すべき成果の出るような仕事からは、徹底的に逃げてきた。だって化けの皮が剥がれるかもしれないし。

大好きな先輩にされたように後輩を大事にし、後輩がしてくれたように先輩や上司を立てていたら、意外と何とかなっているだけで、一日の半分を費やす仕事の人間関係は、出来るだけつつがなく回したいというのが本音。勿論仕事仲間の中から友情へと変化した関係もあるし、どんな人間関係もおざなりにはしてはいけないのだけれども、仕事中に「コイツ休みの日はひとりキャンプしてるくせに、マジなんも出来ねぇな」なんて余計なノイズは要らないのだ。

とは言え人間関係を円滑に回す能力だけでは、決して逃がれられない試験は事あるごとにやってくる。その名の通りの「試験」である。学生諸君、社会人になれば勉強とはおさらば出来ると思っていたら大間違い。残念ながら学生時代よりも多くのことを勉強しなきゃならないのが社会人で、まことしやかについて回るのが「資格」である。しかしその「資格」には「試験」が必須で、「試験」には「勉強」が必要十分に行われていないといけない。

先日上司から、とある資格試験を勧められた。これから先もこの仕事をしていく上では欠かせない資格で、とは言え国家試験のようなものではない。持っていたら「ハク」がつく、程度のもの。

調べたところ受験料は諸々合わせておよそ一万円。「ハク」程度のものに、なんともばか高いお値段である。

にこりと笑って「受けてみますね」とは言ったものの、内心では上司の「受験料は会社で負担するから」の一言を待っていた。しかし待てど暮らせど、その言葉は聞こえてこない。そのため申込の締め切りを意識しつつも、手続きは支払待ちで止めていた。

数週間が経って、やっと諦めがついたわたしは「いい加減、申し込むか…」と嫌々その受験サイトを開く。お昼休み、机にお弁当を広げ、左手にはクレジットカードを握りしめて、ついでに参考書でも買おうと、フリマアプリを開いていた。

するとどうしたものか、手続きに進まない。
「おや?」と思ってよく見ると

“今期の受験申込は終了致しました”

お昼休み、会社デスクで「えっ」と声が漏れる。申込締切だと思っていたその日は実は支払締切日で、申込締切日は一週間も前に過ぎていた。握りしめた一万円(クレジットカードだけども)は、使い道が無くなってしまった。

「受けるって言っちゃったのに、どうしよ…」と思っていたところ、ちょうど開いていたフリマアプリに通知があった。

“あなたの『いいね』した商品が値下げされました”

魔法の言葉である。
受験うんぬんよりもずっと前々から目を付けていた『Sex And The City』のDVDボックス、エッセンシャルコレクション。定価で買うと3万円超え。お値下げ後の値段はちょうど一万円である。ちなみに映画DVD2本も付いてきた。破格である。

あれよあれよと言う間に購入完了。「ハク」がつく程度の資格より、NYを舞台にした人間関係悲喜交々のドラマに課金するのは、小説家を目指す者としては決して間違った選択ではない。

かくして、わたしはSex And The Cityの世界にのめり込んだ。そりゃあもうウットリしっぱなしで、これが90年代の作品とは思えない。30代の主人公キャリーを演じるのはおなじみサラ・ジェシカ・パーカーで、放送当時は33歳。もう、綺麗すぎる。

30代を過ごす女性ならば、一度は経験があるようなことばかり。「こんなことあるよな」「こんな夜を越えて来たよな」なんて、首、取れちゃわない?と思うほど、頷きまくってしまう。

時代を越えても色褪せない恋愛の輝きや、友情の尊さ。
そういったものが、美しく、儚く、時に面白おかしく詰まっていて、世界を魅了してる。

わかるよ、キャリー

ちなみにU-NEXTで新章が始まっているが、わたしはそれもDVDになるまで待つつもり。なるべくネタバレは避ける生活を送っている。

でも見たーーーい!!!
(何と戦っているのだろう)


ちなみに、受験料を負担してくれなかった上司には「落ちちゃいました、てへへ」と言ったきり。そんなもんだろ。てへへ。

「友だちは季節に咲く花」と深澤七郎は言ったが、まさにその通りで、全く花を咲かせない冬のような時期もあれば、満開に咲き乱れる時期もあった。どちらが良いということではなくて「そういう日もある」という泰然自若、光風霽月な心持ちが大事なのだろう。
幸運なことに、わたしは特別な誰かと居る時間も、ひとりでいる時間も、同じくらい好きだし、もちろん横並びにはしないけれど仕事をしている時間も、割と好きだ。

20代までの人間関係が広く浅くなら、30代の人間関係は狭く深い。仕事を辞めたり変えたりするひと。結婚出産マイホームという階段を駆け上がっていくひと。変わって行くまわりと、変わらない自分。

20代までに築いた人間関係の中で、自分にとってかけがえのないひととだけ繋がり、それを守り、慈しむ。30代になったわたしは、そんな取捨選択を行ってきた。好むと好まざるとに関わらず。

「さみしい」という感情は非常に厄介で、恋人や友達が居ても居なくても「さみしい」ものは「さみしい」のであって、わたしはそのぽっかりとあく空洞を、他人の手により埋められることを遥か昔に放棄した。

一時的に埋められた穴は、実は深い蟻地獄になっていて、何度も何度も簡単に、穴は大きく、深く広がる。
ブラックホールのようなその穴を眺めるたびに思うのは「さみしさ」というのは、誰かや何か他人の存在ではなく、他ならない自分によって、広がったり埋められたりするものなのだ、ということ。

わたしはその穴を、誰かや何かで埋める代わりに、その穴をただひたすらに眺め、詳細に観察し、そのさまを言葉にする人生を選びたい。

そうやって自分を鼓舞して仕事に向かい、夜はまっさらな原稿に向きあう。朝起きた時に湧き出した言葉のメモを頼りに物語を紡ぎ、手が止まってしまったら寝る。寝る前にSex And The Cityを1話見る。名言が飛び出せば、メモして友達に送る。わたしは思う。とても、幸せだな、と。

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