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小説「スモーキーピンク」

窓に着いた雫がヘッドライトで光って、わたしは雨が降っていることに気が付いた。西の空がほの赤い。

わたしは持っていたペンを置き、代わりに赤いラークに火をつける。重たい煙が鼻腔に広がり、脳みそにかかっていた靄が晴れるようだ。
着古した紺のコットンシャツは、右手から右肘にかけてだけ擦れてしまって、わたしはタバコを咥えたまま、両手の内側を見比べてみた。自然と胸を寄せるようなポーズになったことに、ふっと自嘲する。

右手の側面が、鉛筆で黒く光っている。
指は筋張って、爪は硬く縦の線が走る。手は年齢を現すと言うけれど、わたしの手もご多分に漏れず、実年齢に伴った歳の取り方をしている。

いつも左手に嵌めていた指輪を外したのは、結婚してすぐの頃だ。仕事柄、結婚していると不利だった。舐められるのだ。家事をして、指輪を濡らすことにも抵抗があった。茶碗を洗うとすぐに傷付いてしまうことが気になって仕方がなかった。
「大事なモノ」という認識は、その頃にはまだあったということだろう。

指輪を外したことで変わったことは、特になかったはずだ。指輪をしててもしてなくても、わたしは独身時代と同じように男に混じって仕事をして、夜は飲みに行き、休みになれば友達と遊んでいた。ずっと遊んでいたいと思っていた。子供は要らなかった。

彼はわたしが結婚しても変わらずにいることを喜んだ。家庭に入り、わたしが女性を失っていくことを怖がるような人だった。わたしは彼が望んだように、わたしが望むように、結婚しても結婚してないような女性であり続けた。ただしそれは、恐ろしく根気の要ることではあった。油断するとすぐにお腹周りの肉は膨らむし、明け方まで飲むと肌は衰えていく。時間の残酷さを感じながら、それでもわたしは「結婚しているんだし」と、どこかで思っていたはずだ。

だからその日もいつものように、BARで出会った男の子に腰を預けた。街路樹の下で隙あらば唇を奪おうとするその子に、わたしは人差し指を立てて焦らし続けた。

それはただの、一種の遊びだった。ワイングラスに残る唇の跡を、親指でお行儀悪く拭う。咥えたタバコに火をつけてもらい、そっと上目遣いでその子を見る。その子は目を細め、こらえ切れないという表情を浮かべる。わたしが好きだというその瞳は真っ直ぐだった。

口紅でスモーキーピンクに塗り潰し、さんざん焦らした末の乱暴なキスで、わたしの屈託ない素肌が曝け出される頃、そっと空は白み始めるのだ。

お酒とタバコの匂いをまとっても、キスの痕は消えなかったのだろう。きっとわたしは本気になった女の顔をしていたはずだ。彼はだらし無く泣き、プライドをかなぐり捨てて土下座までした。

「結婚したじゃないか」
彼は泣きながら言った。わたしは鼻で笑った。
「だから、何だって言うの?」

結局、指輪は連れて来た。2度と着けることもなく今に至る。高慢にも程があるが、何年、何十年経とうと、捨てることは出来なかった。

彼と別れても時の流れは止まってくれない。
踵の高い靴は履けなくなった。
ウエストの見えない服を選ぶようになった。
白髪染めが欠かせなくなった。
似合う服、似合う化粧も分からない。
失われていく、潤い。

後悔?

タバコを挟む指を見つめる。

そんな簡単な言葉で片付けられるほど、一夜にして出来た皺なわけがない。

それでも続く日々の中にキラリと光る幸せは幾つもある。生成りカーテンを開けた時の晴れた日の太陽の香り。仕事の合間に飲むコーヒーとタバコ。寄り添う猫達のぬくもり。17歳になる姪っ子に誘われて行くショッピング。

光栄なことに、デパコスを選ぶお伴に選ばれた。勿論、わたしのお財布が、だけれど。

「あ、このスモーキーピンク、可愛いね」
わたしは丸みのあるケースから顔を出す口紅のひとつを手に取った。
姪っ子が笑う。
「おばちゃん可笑しい。これ、くすみピンクって言うのよ」
「なぁにそれ、スモーキーピンクよ。くすみ、なんて、わたし嫌ぁよ。」
「おばちゃんの時代は、バブルだからねぇ」
姪っ子はケタケタと笑う。

デパートの人混みで、孫と思われる子を抱くその人とすれ違った。
白髪が混じる彼はチェックのシャツに白いセーターを上品に重ね、良く磨かれた靴でデパートの大理石の床を歩く。
わたしに気付いた彼は歩を止める。わたしたちは見つめ合う。

あの頃より遥かに歳を重ねたわたし。目尻には皺が走り、肌はくすみ、髪は白髪混じりでコシは無い。

それでも、重ねた時間に恥じぬ美しさは拭えない。
その日まで、わたしの唇は、スモーキーピンクで無くてはならない。

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