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エッセイ「夢枕で待ち合わせ」

コロナで「死」について考える時間が多くなった。出産した姉のお見舞いにも行けず、コロナで亡くなったがためにお線香もあげられないまま別れた人もいた。身近な人の死と出逢う時、不思議な体験をすることがある。

中学1年生の冬、祖父が死んだ。12月23日だった。明日から冬休みという日「おじいちゃんが亡くなったので昼にお母様がお迎えに来ます」と担任に言われた。
びっくりはしたけれど悲しいのかは分からず、でも「悲しんだ方がいいし、それが普通」ということは分かっていた。とりあえずどうして良いか分からず、机に突っ伏していた。
昼過ぎに早退し、母の運転する車の中で連絡帳を開くと「悲しいと思うけれど、元気を出してね」と担任の女教師からメッセージが書いてあった。
「違うんだよなぁ」と思ったことは覚えている。

静かに横たわる祖父を見た時の衝撃は忘れない。「それ」は、祖父のかたちをした「容れ物」だと、すぐに分かった。人生で初めて身近な人の死に直面したはずなのに、何故だか悲しさはあまりなかった。その頃の私の記憶はひどく曖昧だけど「違うんだよなぁ」とは、ずっと思っていた。

父方の祖父母は気安い「おじいちゃん」ではなく、どちらかと言えば「おじいさま」だった。今も昔も変わらず農家の母方と違い、父方の祖父は戦後に身ひとつで会社を立ち上げ、父が幼少期の頃はそこそこお金持ちだったようだ。
母方の実家を思い浮かべる時、のんびりした日当たりの良い乾いた土の匂いを思い出すのなら、父方の実家は静まり返った部屋に敷かれた濃い緑のベルベットのカーペットを思い出す。
母方の実家に行けば、乱雑に切り分けた山盛りのスイカが大皿で出てくるのに対し、父方の実家でそれはソーサー付きのガラスの器に、繊細な銀細工のスプーンが添えられたレディーボーデンのアイスクリームが出てきた。

祖父は寡黙だったが時に尊大で、気紛れに孫と遊んだ。昭和の男らしく大酒飲みで、しかし家族の前では銅像のように動かず、表情からは何ひとつ感情が読めなかった。
祖父は晩年大量の薬を服用していた。個包装の銀のフィルムからひとつずつ薬を取り出し、祖母の出した陶器の容れ物に山盛りにするのは、夕食後の私たち姉妹のひとつの遊びだった。祖父の膝の上でフイルムからプチプチと薬を取り出していると、しわしわでシミだらけの手で、ぎこちなく頭を撫でられた。温かい祖父の胸からお腹にかけてのぬくもりを背中で感じていた。

その片手ひとすくいほどになる量の薬を、祖父は濃いめに淹れた緑茶でゆっくりと流し込み、それを飲み終えると満足そうにマッサージチェアに腰掛け、また元の銅像に戻るのだった。


そんな父方の祖父母宅で、長男の嫁という立場に居ながら、男の子を産めなかった母はさぞ肩身が狭かっただろうと思う。祖父母と話す母の、いつもと違う他所行きの作り笑顔に、幼い私たち姉妹は反応し、朧げな思い出は穿った記憶として刻みこまれた。

父の妹がアッサリと男の子を産んだこと、母が男の子を産めなかったこと、それを引け目に思っていること。物心ついた頃から、それに私は気付いていた。私が三姉妹の末っ子で、母の期待に添えず女として産まれてしまったことを、どこかで申し訳なく思っていたからかもしれない。どうしようもないことだけど、だからこそ、小さい頃の私は、どこかでいつも自分を責めていた。

いずれにせよ堅苦しい父方の祖父母宅で、寡黙で表情の読めない祖父は、私にとっては「年に何度か会う遠い親戚の1人」でしかなかったのだ。勿論祖父母のことは大好きだったけれど、それを表現するのは、とても難しいことだった。
ある程度大きくなると、子供は大人との距離の取り方を知る。それは懐かなくなるというだけで嫌いになるわけではないのだけれど、照れ臭さや戸惑いが、時に大人にはそう映る。そして子供にとって、そういう距離の人の死は、総じてあまり記憶に残らない。

だから「違うんだよなぁ」という気持ちのまま、祖父の死は思春期の青くさい日々の中に埋没し、わたしはそれを忘れていった。

祖父の死んだ次の年の夏休みだった。お盆だからという理由で、部活は朝練から午前中で終わった。私はテニス部だったが、あまり運動が好きではなく今もどちらかといえばインドア派だ。とは言え私の中学校は何かしらの運動部に入らなければならず、一丁前に陽に焼けて、北海道の短い夏を不本意ながら謳歌していた。

夏の日差しが頭頂を焦がすのを感じながら、家までの帰り道、塾の宿題のこと、夏休みの宿題のこと、好きな人のことなど、とりとめないことをひとり考えていた。

当時の私の悩みのほぼ全ては人間関係で、部活に行きたくなくて、塾を理由に良くサボっていた。かと言って塾に真面目に行っていたかと言えばそうではなく、体調が良くないからとかテキトーな理由をつけてサボっていた。そうこうしているうち、あっという間にテニスも勉強も友達と差が開き、なんとなく部活にも塾にも、居づらくなってしまったのだ。部活や勉強をしたくないけど、だからといってやりたいことがあるわけでもなかった。無作為に過ぎて行く日々に焦っていた。

実家の玄関は、北海道の冬の乱暴な風雪が入り込まないよう、四角いコンクリをくり抜いた先に扉があるつくりになっており、入り口が少し奥まっている。

その入り口に足を踏み入れた瞬間、それが目に飛び込んできた。

大蛇だった。

木目の玄関扉の外枠から金属の取手まで、ドアを囲むように巻き付いていた。家の中への入り口を探しているようにも見えた。今でもその、つややかに光る白い鱗や、艶めかしく巻きついたトグロを、ありありと思い出せる。

その光景の衝撃はあまりに恐ろしく、私はしばらくの間、その場で立ちすくんだ。家に入れず、どうすることも出来ず、結局庭に繋がれた犬を撫でて時間を潰し、その大蛇が自然に去るのを待った。
自然が多い地域ではあるが、あの家で蛇を見たのは後にも先にもそれが最初で最後だった。数時間の後に見に行くと大蛇は姿を消しており、私は無事に家に入れた。

その日、帰宅した両親に伝えたところ「祖父かもしれないね」と笑った。そんな可能性をつゆほど考えもしなかった私は、ひどく後悔し悲しくなった。祖父が会いに来てくれたのに、と。
それと同時に嬉しくもあった。祖父が会いに来てくれたのだ、と。

「違うんだよなぁ」と思っていた心の正体は、もう会えなくなることへの戸惑いと、きっとまた絶対に会えるという確信にも似た予感だったのだと、今ならば思う。

あの日祖父が現れたことで、私の人生が一変したかというと、そんなことはなかった。相変わらずテニスは下手だったし、部活の友人とはギクシャクしていた。塾には行きたくなかったし、勉強も大層苦手だった。

それでも、わたしはそういう嫌なものと、自分なりに向き合って行った。そしてそれは、多分、今となっては全て結果オーライなのだ。

先のような体験は願って出来るものではない。
今、コロナで会いたい人に簡単に会えないように、死んだ人には気軽には会えない。願ったところで夢枕には立ってもらえないのだ。

それでもわたしは毎夜、どうか会いたいと願う。
会いに来て、また、不器用でぎこちなく、私の頭を撫でて欲しいと思う。

そしていつの日か、その日が来た時には、私も誰かのもとに現れたい。とても大切な誰かのそばに、気付くか気付かれぬかの間際で、そっと。

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