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小説「噂舞う夕餉」

H社の内定が決まったと言うと両親は泣いて喜んだ。僕の内定の噂はたちまち大学と近所に飛散した。

噂は学校や会社なんかの人の多い場所に舞い、道端に溜まりやすい。突然現れて気付けば消えている。木の葉や砂と同じく、風が吹けば飛んでいく。噂は羽のような形をしている。透明で太陽に当たると虹色に光り、ふわりと口に入ると溶けて消える。これが世に言う「噂」の正体である。しかしその繊細な見た目からは想像も出来ないほど、舌を抜かれるような甘さに、人はもがき苦しむ。口を開き、喋り続けていなければ、楽にはなれないほどの甘さである。喋り続ける人の口からは同じく噂が飛散し空気中に舞い、再生成され世界中に拡散され、七十五日程度で消えていく。

息子が内定を辞退した。よりによってH社である。息子のような呑気な男が普通に生活していて入れる会社ではない。私の口添えがあってのことである。愚息は私の顔に泥を塗るだけでなく、激昂した私と心配する妻の声などまるで聴く耳を持たず「春から家を出て彼女と暮らす。迷惑はかけない。」と言った。息子が大事そうに肩を抱いた女性は口が利けないという。我が家の品格を大いに損なう事態に、怒りを通り越し、ただ茫然としてしまう。

 はるか昔より、人は舞い散る噂に苦心してきた。噂はいつの世でも戦争や飢えなど、重大な世界問題を引き起こしてきた。現代に入りやっとその制圧に成功する。それは6つの組織による功績が大きかった。今やその組織は世界的大企業となり、人はその6社を5W1H社と呼ぶ。世界は5W1H社により席巻され、現在の平和的均衡を保つ。
 その超一流企業のH社の内定を、我が愚息はあろうことか蹴ったのである。

「本日の噂の飛散量は例年に比べ非常に多く、5W1H社は対応に追われ…」
 夜のニュースキャスターの女性が、季節の変わり目を伝えている。夫と息子は黙り込み、黙々と食事を続ける。息子の隣の彼女に珈琲のおかわりを勧めても、優しく微笑み首を横に振るだけである。
 息子が世界的大企業から内定を貰い、それを即座に辞退したことは息子なりの夫への反抗だと私は思っている。
「私の力がないと、アイツなど世の中に通用せん」と、夫は事あるごとに言う。口からは噂が飛散し続けているが、本人は一向に気が付かない。夫は生まれながらの上流階級の出で、そんな人間には、道端の葉にたまる噂を舐め取って飢えをしのぐ生き辛さなど、分かるはずもないだろう。だから私は息子の彼女のことを夫ほど嫌悪できずにいたし、少しでも息子が愛した人のことを知りたいと思った。だから、今夜の夕食に彼女を招待したのだ。

彼女は生まれながらに喉の奥が癒着して喋れない。親もしくは祖父母による噂の過剰摂取による遺伝的変異が原因らしい。彼女とは内申稼ぎのボランティアで出会った。僕の一目惚れだった。彼女が喋れないと知ってからも、僕の気持ちは揺るがなかった。幸いなことに彼女は手話を知っていた。僕は必死に手話を学び、彼女と対話を重ねた。そしていつしか、僕らは恋に落ちた。

四人で囲む食卓には手の込んだ料理が並ぶ。貧困層の出を隠した女性が作るその料理は絶品だが、実は大量の噂が隠し味として使われている。そうとは知らず寡黙に口に運ぶ男は、妻の作る料理に満足している。彼は上機嫌にグラスを傾け「私は噂など人生で一度も口にしたことがないぞ」と自慢気に話すが、そう話す口からは彼が気付かぬほど微粒な噂が、常に吐きだされている。

そんな男を見つめる彼の息子は今夜、両親と縁を切ろうとしている。彼は父親が敷いたレールの上を歩く生き方に、どうしても意味を見出せなかった。自分の意思で人生を切り拓くことを教えてくれたのは、他でもない恋人である。

「大事なのは、噂をどう味わい、どう行動するか、ではないの?」

拙い手話で、恋人は彼にそう問うた。彼が人生の本質に触れた瞬間だった。眉を下げ、困ったような微笑を浮かべる聾唖の恋人を、彼はただ見つめる。僕がH社に入ろうと入るまいと、きっと彼女は変わらずに僕を愛してくれるのではないか。

体内に蓄積した噂ともどもに。

「あのさ、父さん」

口を開いたその時、食卓に雪のような噂のひとひらが舞い落ちてきた。四人の目は同時にそれを捕らえる。それはもしかしすると、誰かの口から吐き出されたものかもしれない。

アタシはそれに向かって、進んで口を開いた。

「みっともない」
男の声は、彼女には届かない。
眉根を寄せる男を、その妻は冷たく見つめる。

恋人の口に入る前に、ぱくり、と僕は噂を飲み込んだ。両親と恋人が驚いた目で、僕を見る。

途端にどろりとした甘さが口に広がる。喉がひりつくように焼け、舌が曲がりそうに、ただ、甘い。同時に僕の舌は、動こうとするのを止められない。

「ご馳走様」

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