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生きかえりの鏡 第1話

 あらすじ

 恋人の美菜みなを通り魔によって失ったれんは美菜の死に不審な点があること知る。そして蓮自身にも危害が及び、不思議な声に呼ばれて神社の社に飛び込んだその時、蓮は江戸時代に行っていた。そこでも蓮は襲われ、自分が死ねば愛するものが生き返ると聞く。間一髪で現代に戻った蓮は美菜の双子の妹である優菜にも美菜と同じ現象が現れていることを知り、優菜にまで何かがあったらと自ら時を超えた社に向かい、再び江戸時代に行く。そこで蓮は蘇生教という他人の命を得て愛する者を生き返らせる教えを知る。蓮は自分の命で夫を蘇らせるという巫女に襲われ現代へ戻ろうとするが、神社は焼け落ちていた。


 第1話

 大好きな美菜が死んだ。
 衝撃よりも、体から何かが削ぎ落とされたような喪失感が強かった。
 隣のクラスだったけど妙に気が合い高1の夏頃には付き合うようになって、このまま一緒の大学にも行くのだろうと思うくらいお互いが好きだった。

 ──なのに、美菜は死んだんだ。

 高2の始業式が始まる三週間前。
「……この赤い線、何?」
 美菜の部屋で俺はそれを見つけた。美菜の首筋に本当にうっすらと赤い線が浮いていた。
「なに? 人の首なんか見つめて」
 美菜がえっち、と笑う。
「いや、真面目に……」
 美菜のほほえみに思わず心臓が高鳴り、俺は慌てて顔を離す。
 美菜はわざと首筋を見せつけるようにしながらそう言えば、と話を切り替えた。
「この前家系図を眺めてたらさぁ。なんか簡単になってて」
 美菜の祖先は神社の神主をしていたらしく、結構しっかりした家系図が残されている。
 そのせいか美菜は幼い頃から歴史好きで、家系図にも人一倍興味を持っていた。
「家系図が簡単ってどういうこと?」
 俺の言葉に美菜が机の上に置かれていた虫食いのある家系図を見せてきた。
「ほらここ。ゼンジロウにユウジロウってなってるけど……前はたしかソウジュウロウっていう名前もあった気がする。三人兄弟だった気がするんだ。だけど今見たら二人になってて……」
「違う家系図なんじゃないの?」
「そんなはずない。家系図は一つしかないもん」
「じゃあ美菜の思い込みだよ。っていうかなんで急に先祖のこと気にしてんの?」
「えーとね、何ていうか、最近ご先祖様の事が妙に気になるっていうか、元気かなっていう……」
「昔の人に元気も何もないだろ」
「分かってるけど、でもこう、なんか……胸騒ぎっていうかとにかく気になるの!」
 眼の下で美菜の細くていい香りのする髪の毛が不満げに揺れている。俺は美菜のつむじを眺めながら気のせいだろ、と言う。美菜は口をとがらせスマホを閉じた。
「そういえばれん、今度インターハイに出るんだって?」
「うん。団体戦と個人戦」
「すごいじゃん。沢山一本取ってね!」
「そんな簡単に言われても……。そういえば、じいちゃんもご先祖様のことを気にかけていたな」
 今は亡き祖父が剣道の師範をしていた縁で俺は小学校から剣道を習っている。
 高校に入ったらやめようと思っていたけど剣道部からの誘いを断りきれず結局続けることになった。
「蓮は気にならないの?」
「歴史上の偉人ならともかく、俺ん家そうじゃないし」
「身分とか関係ない。自分の命をここまで繋いでくれたご先祖様に少しは興味持とうよ」
「そんなこと言われてもなぁ」
「んもー」
「あ、その顔可愛い」
 俺の顔を見上げて不満げにする美菜の口に軽くキスをし、その日の話は終わった。

 週明け。
 美菜は夕飯の食材を買いに通った商店街で通り魔に襲われ、そして死んだ。
 病院に駆けつけた俺は霊安室に通された。震える手で戸を開くと奥にベッドが見え、美菜の母親とうつむいた双子の妹の優菜が立ち尽くしていた。
「……あの」
 俺が声を掛けると優菜が血の気を失った顔で俺を見る。
「入ってきなよ」
 優菜の声は冷たい機械のようだった。
 俺が力なく一歩足を踏み出そうとすると。
「でも、あまり近づかないで」
「えっ?」
「今の私を見ないで」
 美菜が言ったと思った。
「……そう思ってる。美菜は」
 心臓が止まりそうになり、目を丸くした俺に優菜が続けて言う。
「お願い、美菜を悲しませないで」
 俺は足元がおぼつかなくなり、よろけるように背中に壁を付ける。
 霊安室には美菜の母親の嗚咽だけがいつまでも響いていた。

 4月。
 高2になっても俺の時間は止まったようだった。
 週末、気がつけば俺は美菜と良く待ち合わせをしていた近所の公園を夢遊病のように歩いていた。
「重症だね」
 いつの間にか優菜が目の前に立っていた。ワープでもしたのかと思ったが、どうやら鼻がくっつきそうなほど近づくまで気づかなかったらしい。
「このままキスされたらどうしようかと思った」
 最後に美菜と会った日のキスを思い出した。
「……するかよ」
 ああ、久しぶりに喋ったな、と俺は思った。
「美菜の顔を見せてあげなくてごめんね」
 そう言い小さく頭を下げる優菜に俺は言った。
「いいんだ。理由は分かってるから」

 美菜の死に顔は結局最後まで見ることはできなかった。
 霊安室の時は仕方ないと言い聞かせて身を引いた。だが通夜の時も納棺のときも、出棺のときも俺は美菜の顔を見ることができなかった。
 ──最後に美菜の顔を見たい。
 美菜の両親に通夜の席で俺は願った。だが許してくれない。両親は何か言いあぐねているようだった。それでも俺が必死に訴えていると優菜が俺を睨むようにして言った。
「蓮、一回だけ言うよ。美菜の顔はね……」
 俺は呼吸音が聞こえそうなほどに耳を澄ませた。
「切れているの」
 優菜は顔を思い切りしかめながら、本当に喉の奥から絞り出すように呟いた。
「……だから……お願い……。お願いだから……」
 優菜の瞳から涙腺が壊れたように涙がこぼれ落ちた。初めて見る優菜の涙と嗚咽。
 俺はその後、出棺を見送るまで何も喋ることができなかった。

「話したいことがあるの。蓮に教えないのは、違うんじゃないかって思って。美菜は蓮のこと大好きだっていつも言ってたから」
 ベンチの隣に腰掛けた優菜が言った。
「蓮だって美菜のことを……今は違うの?」
「違うもんか!」
 反射的に叫んでしまった。身を竦めた優菜がこちらを見ている。
「ごめん」
「ううん。美菜も喜んでると思う」
 優菜が口元にかすかな笑みを浮かべた。美菜の死から初めての笑みだった。けれども美菜の笑顔に重なりつい目を背ける。
「それで俺に話したいことって何?」
 俺の問いに優菜は息を吐き出すように言った。
「美菜は、商店街で襲われた」
 俺は小さくうなずいた。できれば聞きたくない言葉だった。
「犯人は前後不覚だったって」
 その都合の良い言葉に不快感が破裂しそうな勢いで吹き出す。だからなんだ? と叫びたいのを必死に抑えて俺は言葉を待った。
「犯人が持っていたのは果物ナイフ。でもね……」
 優菜が顔をしかめていいあぐねている。
「無理に話さないほうがいいよ。何か飲み物でも買ってこようか?」
 立ち上がろうとする俺の腕を優菜が掴んだ。
「……ナイフと切り傷の痕がどうにも合わないんだって」
「合わない?」
「美菜の傷は……その、ナイフなんかよりずっと鋭いものじゃないとできないくらいに傷口がきれいで深い傷……なんだって。骨まで切れているくらいの……」
「骨まで?」
 優菜の言葉に驚いた俺はベンチに座り直す。
「そう。ナイフでついた傷もあったけど、でも致命傷は……そっち」
「果物ナイフで骨を切るなんてそんな……」
 ふと、脳裏に道場の鍛錬が思い浮かんだ。
 剣道の師範だった祖父は真剣による居合の師範でもあった。
 幼い頃に真剣による稽古で祖父が分厚い藁の束を横薙ぎに断つのを見たことがある。藁束の断面を見ると中には太い木の棒があり、これが骨や甲冑でも断てる、と言っていた。
「日本刀……」
「? 日本刀がどうかした?」
「なんでもない。それよりごめん。辛いこと話させちゃって」
「……うん」
「大丈夫? 家まで送るよ」
「ありがとう」
 話すことで心が少し楽になったのだろうか。優菜はホッとした顔でうなずいた。

「ウチの先祖ってどんな人だったのかな」
「あら、珍しいこと言うのね」
 優菜を家まで送り帰宅してなんとなく呟いた俺の言葉に母が目を丸くした。
「お盆でもないのにどうしたの?」
「なんとなく」
「……美菜ちゃんは本当にお気の毒だったけど、あまり思い込まないでね」
「分かってる。そのことで言ったんじゃないから」
「そうなの? ご先祖様のこと考えるなんて、何か思うところがあるんじゃないの?」
「そんなの……」
 そういえば、どうして先祖のことが気になったんだろう? と思ったけど分かるはずもなく俺は考えるのをやめた。
 深夜2時。
 天井のシーリングライトの蓄光具合が気になり、なかなかまぶたが下がらなかった。
 祖父の顔を思い出し、祖母の顔をかろうじて思い出し、アルバムの中でしか見たことのない曽祖父母のぼやけた顔をなんとか人の顔の形程度に認識する。
 曽祖父は三人兄弟で三男だったな、と考えていたがふと、いや二人兄弟だったか? と記憶が曖昧になる。アルバムで見た三人が並んでいる写真をわずかに覚えているのに、どうしても二人分の姿しか思い出せない。
 体を起こすと、もう横になる気になれなかった。
 俺は布団に追い出されるように立ち上がるとそっと家を出て三日月が薄く照らす深夜の街を歩き出した。
 暑くはないのに、淀んだ空と粘つく空気で体中から汗が滲んでくる。
 何か飲み物がほしい、と自販機の明かりに向かうと、反対側から人影が近づいてくるのが見えた。
 スマホを見ているでもないのにやけに顔はうつむき、眼鏡とマスクで表情は見えない。
 男はまっすぐに歩を早めて近づいてきた。
 突然頭の中で警報が鳴り、俺はわざと足音を響かせて男の動線から体を逸らす。
 だが男の足はずらした俺に合わせて進行方向を変えてきた。
 ポケットに突っ込んでいた手が抜かれ、何か柄のようなものを握っている。
 ──ヤバい。
 一気に駆け抜けようとした時、足首を何かに掴まれた。
 俺が姿勢を崩すのと男が包丁を振り上げるのは同時だった。
 俺は咄嗟に前転し、振り下ろされる包丁から逃れる。
 相手の動きは遅い。これなら逃げられると振り向いた時、男の姿に重なり、影が刀を振り上げて覆いかぶさってきた。
 歯を食いしばって体をそらすが、影の切っ先が腕を掠った。
 火を押し付けられたような痛みが走り、腕がしびれてまた足がもつれる。
 背中と後頭部の痛みに耐えて体を起こすと、男と影がまた重なり、刀を上段から振り下ろす寸前だった。
 体が四方か縄で引っ張られているかのように動かない。影の刀身が銀色に光ったと思ったその時。
「左!」
 耳の中に声が響いた。体を縛っていた見えない縄がほどけ、歯を食いしばって体を転がす。地面に影の刀身が食い込み硬い音を響かせた。
「走れ!」
 声のままに走り出す。
「そのまま! そう、石段を登れ!」
 声は俺を小山の上にある神社へ誘導していた。そこに行ってどうするのかと思っていると。
「左だ!」
「え? 道なんて……」
「行け!」
 どうにでもなれ、と手すりを越えて藪に飛び込むと驚いたことに足の底に石畳の感触があった。驚きながらそのまま進むと、頂上の神社の裏手辺りまで来たところで古い社を見つけた。
 こんなところに? と目を丸くしていると、藪をかき分ける音が迫ってきた。
 振り向くとマスクも帽子も落としたさっきの男が泡を吐きながら包丁を振り回し迫ってきている。
 思わず後ずさると石につまづき背中から社にぶつかってしまった。朽ちかけた扉がみしりと音をきしませて開く。中にはこんな朽ちた社の中にあるとは思えない大きな銅鏡が飾ってあり、それは光を当てているかのようにまばゆく輝き出した。
「がああああ!」
 男が人とは思えぬ声を発して迫ってくる。
「社に飛び込め!」
「え?!」
 社の中は四畳半もない。入れば文字通り袋の鼠だ。
「早く!」
 男の前に一瞬着物姿の少年の姿がおぼろげに見えた。男に向かい刀を構えている。
 俺は社の中に飛び込んだ。

「うわっ?!」
 社に入ったと思った瞬間、足の下に地面がなかった。
 俺は一メートルほどの空中から地面に落ち、そこが傾斜のある場所だったのでごろごろと五メートルは転がり、葉っぱと泥だらけになる。
 体中が痛い。特に右腕が痛い。見れば服の袖が切られ、血で染まっていた。
「……夢じゃない」
 腕を押さえると鋭い痛みが走り、思わず顔が歪む。
 改めて見てみれば案外傷は浅く、大げさだったかと少し気恥ずかしくなった。
 空を見上げると木々の上に太陽が見える。真夜中だった筈だ、と周囲を見るとここは山の中らしい。振り返れると、そこには新しい社があった。周囲の草木は刈られ石畳が続いている。さっきまでいた場所だ、と思った。でも何かおかしい。
 木々の間、下を見れば街が見え隠れするはずだが俺が知っている森より木が多いせいか下が見えない。
 石畳を進めば本殿に続く石段に着く。そこから降りれば街の筈だ。
 でも進むのが恐ろしいと思った。
「行くんだ」
「うわっ?!」
 背後から声が聞こえ、飛び跳ねるようにして後ろを見ると、そこには俺に良く似た少年が立っていた。
 着物姿もだけど俺とは決定的に違うところがある。
「お前……幽霊か?」
 そいつは薄っすらと体が透けていて、そしてどんどん透明になりつつあった。
「このま……さき……」
 体が透けると同時に声もかすれ始めていた。
「どうか……姉のきやを……たすけ……」
「姉? きや? それが何だ? 教えてくれ! ここはどこなんだ?」
 待て、と少年に掴みかかろうとするが、もう煙のように薄くなっている。
「いまは……てんめい……」
「おいっ!」
 少年は消えてしまった。俺はつかもうとしていた手を宙に浮かせたままため息を吐き出した。
「何なんだよ……。てんめい……って、もしかして江戸時代の?!」
 美菜から歴史のことをさんざん聞かされていたのがここで役立った。
「天明って、たしか1700……いやそれより後の年代だよな? 天明の大飢饉とか、浅間山大噴火とか……。ヤバい時代じゃないのか?」
 嘘だろ、と体が総毛立つ。とにかく現在位置を確認しようと歩き出した俺は本堂に繋がる石段に出ていた。
 割れたり苔むしてすり減っている筈の石段は新しく上を見れば鳥居と神社の屋根が見える。
 覚悟を決め下を見ようと振り向きかけたその時。
志水しすい……?」
 下から声をかけられ驚いて振り向くと着物姿の若い女の人が声を上げ抱きついてきた。
「えぇっ?」
 俺は女の人を見た。とても綺麗な着物を着ていて帯には短刀を差している。時代劇で見たことがある身分の高い人のようだ。
 俺の手を取った彼女は今にも泣き出しそうな顔で言った。
 「不思議な出で立ちをしているけど顔は志水だわ。今までどこにいたの?」
「…その、自分の家にいたんですけど。あの、ここってどこですか?」
 僕の答えに彼女は呆気に取られた顔をした。
 「何も覚えていないの?」
 「は、はい」
 「きっと狐か狸に化かされていたのよ。屋敷に戻り怪我の手当をしないと」
 彼女は袂を割くと血が出ている俺の腕をしばり止血してくれた。
 手当をしながら彼女は俺に話をした。
 彼女は矢馳季椰(やはせきや)といい、半年前に自分とそっくりな弟が死んだ母を生き返らせると出ていったきり戻らない。
 色々と手を尽くしたが見つからずそれでも諦めきれず弟を最後に見かけたというこの場所に毎日通っていたのだという。
 だとすると志水は死んでいるのか? 咄嗟にそれも言いかけたがさっき見た志水と思われる幽霊は確か姉を助けてくれと言っていた。
 勝手な事をと思ったが今、他人だと知れたらつながりを持つ人間がいなくなる。
 騙すのは気が引けるが独りではここで生きていけないだろう、と俺は不安を抱えつつ志水を演じようと決意した。
「あの、き……姉上」
 階段を降りながら俺は恐る恐る先を歩く季揶さんに声を掛けた。
「なんですか?」
「屋敷には」
 どのくらいかかるのかと言う前にお腹が鳴ってしまった。それを聞いた季揶さんはたった今までの厳格そうな表情が一転、吹き出して言った。
 「一刻(三十分位)でつきます。それまで腹の虫にも我慢してもらわないとね」
 本当に江戸時代なのか。
 石段を降り、周囲を見渡した俺は色んな意味で諦めがついた。
 ビルはない。車も何もない。
 田んぼと畑、ちらほらと未舗装の道を歩く人々がいる。
 高台から俺が住んでいた街を見ると、そこには平屋の家ばかりが並びビルで見えなかったはずの隣の県境の山脈が麓まで丸見えだった。
 いくつかの路地を抜け大きな屋敷の前に来ると彼女は言った。
「着いたわ。ここがあなたの家よ」
 まさに時代劇で見るような武家屋敷だった。
 周囲は塀で囲われ、出入り口は表門と裏門しかなく外から中の様子は見えない。
 戸惑う俺の手を引っ張り季揶さんは屋敷に入った。
 「父上のことは覚えている?」
 「いいえ」
 廊下を歩いていた彼女は振り向き言った。
 「あなたのお父上である矢馳やはせ尚義なおよしは寺社奉行の職についているの」
 「奉行? すごいんですね」
 俺の言葉に季揶さんは本当に何も覚えていないのねと苦笑いをした。
 「父上には私から話しておきます。その前にあなたの姿を改めないと。着替えを持ってくるわね」
 「すみません」
 「いやだわ、かしこまらないで。さあ、ここがあなたの部屋よ」
 通された部屋に俺を残し季揶さんは出ていった。
 部屋を見回すと彼女の弟の刀なのだろうか、床の間に大小の刀が飾られている。
 幸い僕は剣道部で扱いには慣れている。
 ここで暮らすには志水という人物になりすますしかないんだ。
 僕は改めて覚悟を決めた。
 
 夕方。
 外から季椰さんの声が聞こえてくる。どうやら屋敷の主が帰ってきたらしい。
 呼ばれるまでここで待っているように言われた俺は慣れない袴姿で耳をそばだてていた。
 「入りますよ志水」
 少しして季椰さんの声と共に障子が開いた。顔を向けると自分の親よりは少し年上に見える男性が立っていた。
 月代さかやきとかいう頭のてっぺんを剃られた髪型を見た俺は本当に過去に来たんだと実感した。
「父上?」
 俺を見て固まっていた尚義が季揶さんの声で我に返る。
「その頭は何だ? お前は本当に志水なのか?」
「はい父上。この子は少し記憶を失っているようなのです」
「……そうか」
 彼はそう言い残し立ち去ってしまった。
「ごめんなさいね。突然のことで父上も戸惑っておいでなんだわ」
 季椰さんが申し訳無さそうに俺の手を握る。
「自分なら大丈夫です」
 俺の言葉に少し悲しそうな顔で季揶さんは微笑んだ。
「皆で夕餉と思っていたけど難しいみたいね。運んでくるから悪いけど志水はここで食べて」
 そう言い残し季揶さんは出ていった。
 彼女の話によると一月前に妻の麻季江《まきえ》さんを流行病で亡くししばらくの間、塞ぎ込んでいたという。
 立場は違うものの好きな人を亡くしたのは同じなんだと思うと俺は尚義という人が他人事に思えなかった。
 
 その夜。
「眠れない……」
 パンとかちょっと摘めるものがあるわけ無いか、と俺は腹を押さえた。
 この時代は布団も枕もまるで違っていた。
 夕飯も米は色々混ざって硬いし、味付けは妙に薄いか濃いか。おかわりなんて無い。とにかく腹に入れるのに精一杯で、食事を終える頃には逆に腹が減った気がして参ってしまった。
「コンビニがあればなぁ。スマホもないから証拠の写真撮れないし……」
 着物に着替える前、急いで確認すると持っていたはずの財布とスマホがなかった。
 この時代に来た時に落としたのか無くなったのかわからない。着の身着のままなので自分の頭では現代知識でチートとかそういうのは無理に思えた。
「いや、そもそもこの時代って実は和算っていう数学が娯楽みたいに盛んで、一般人でも数学の知識がすごかったらしいし……」
 腹が減ったのをごまかすため独りごちていると障子の向こうから声がかけられた。
「姉上?」
 思わず布団の上に正座すると、障子戸が静かに開き季揶さんが顔を出す。
「まだお腹が減っているのでしょう?」
 そう言うと小さな握り飯と漬物が載ったおぼんを俺に差し出してくれた。
「どうして?」
「あんな顔をしていたら誰だってわかります。行方知らずの間にすっかり食いしん坊になってしまったようですね」
 屈託なく微笑んだ季揶さんはちゃんと台所に返すのですよ、と言って戻っていった。

 翌日。
 縁側に座り込んだ俺はもうこの時代で志水になりきって生きるしかないのか? と悩んでいた。気がつけば庭に少女が立っていた。
「誰だ?」
 驚いて見つめると少女はこちらへ、と俺を手招きして壁の向こうへ消えていく。
「また幽霊かよ」
 志水に続いてか、と慣れてしまった自分に驚きつつ俺は草履を履いて裏門から外に出た。
 立っている少女の姿はまるで陽炎のようだった。
「逃げてください」
「それって現代に?」
 俺の言葉に少女は首を振った。
「死の運命からです。あなたはそれから逃げなければ、いえ、立ち向かわなければなりません」
「死……? 立ち向かう?」
「気をつけて。危険が迫って……」
「待ってくれ、おい!」
 少女は霞のように消えてしまい俺は眉根を寄せた。
「死ってなんだよ。縁起でも……」
「お前は……! ああ、まさか本当に現れるなんて!」
 いきなり興奮した声が聞こえ、俺は猫みたいに飛び退く。
 眼の前に現れたのは自分の母親より少し若そうな女性だった。
 男物の着物を着て手には包帯を巻き、手入れが良いとは思えない錆びた刀を握りしめている。
「きええええっ!」
 奇声と共に女性が思わぬ鋭さで刀を横一線に凪いだ。
 風を切る音が不気味に耳を撫でた。距離が遠いから避けられたものの背筋が凍る。
「刀を持って来ておけば……!」
 真剣を腰に差すのにどうにも抵抗を感じたのが裏目に出た。
 女性の振るう刀とは思えぬ勢いと鋭さに圧倒され俺はうっかり尻餅をついてしまった。
 女性は目を輝かせ、嬉々として刀を勢いよく振り上げる。
「その構え……! あのときの影?!」
 元の世界で襲われた時に重なった影。女性の構えはそれと瓜二つだった。
「お前が死ねば、あの人は……あの人は……!」
 刀身から湯気のような青白い何かが湧き上がるのが見える。
「志水!」
 背後から季揶さんの声が聞こえた。
 いしつぶてが女性に当たり女性が怯む。その隙に俺に向かい季揶さんが刀を投げた。
 俺は咄嗟に刀を掴んで鞘から抜くと腰を落とし青眼に構えた。
 ──重い。
 真剣は竹刀の倍近い重さがあった。
「あなたは……、確か浮世絵師の石名いしな美津代みつよ? なぜあなたが……」
 季揶さんの問いを無視し、姿勢を整えた美津代が問答無用と襲いかかる。
 柄を握りしめた俺は短く息を吸った。
 ──じいちゃんの真剣同士のときの教え、まさか役立つときが来るなんて。
 刀は横から打て。
 下半身をねじり、その反動で上半身を一気に捻って刀を横に振るう。
 狙うのは振り下ろしてくる刀身。
「シィッッ!」
 鋼がぶつかり合う耳障りな甲高い音が響き、美津代の刀が折れた。刀身が宙を飛び、地面に突き刺さる。
 抜け殻のような顔で美津代は折れた刀身を呆然と見つめた。折れたところから青白く光る煙がドライアイスのように流れ落ちている。
「勝負ありだ。諦め……いつッ」
 呆然と佇む美津代に対して格好良く決めたつもりのはずが、手のひらに刺すような痛みが走り思わず刀を落としてしまった。
 見ると両手のひらが真っ赤に染まっていた。鉄の塊である真剣を力いっぱい振り回した時に手の皮が剥けてしまったらしい。
 剣道を始めた頃を思い出した俺は苦笑いをした。
「志水!」
「俺は大丈夫です。それよりこの女の人を」
「人を呼んできます」
 駆け寄ってきて俺と美津代の顔を見比べた季揶さんは急いで屋敷へ戻っていった。
「あんた、いつまで呆けてるんだ?」
「ああ……あああああ!」
 声をかけるもなんだか様子がおかしい。大丈夫か、と思わず近づこうとした時。
「近づいてはいけません。命を吸われます!」
 突然先程の少女が現れ声を上げた。
「でも……」
 言いかけた時、美津代が突然倒れ、それきり動かなくなる。
 驚いていると少女は冷静に落ち着いて、と言葉をかけてきた。
「相手の命を奪いそこねた代償は己の命なのです」
「代償? 一体なんの……うっ?!」
 激しい頭痛が襲い、視界が一瞬ぼやける。頭を抑えた手を見ると、向こうが透けて見えていた。
「なんで……」
「あなたを呼び寄せた元凶が消滅したからです」
「俺がここに来たのはその美津代って女の人が原因?」
「そうです。あの者は夫の蘇りを願い、あなたの命を欲しました」
「人の命で他人が生き返るってどういうことだよ」
「それは私にもわかりません」
 悲しそうな瞳を見た俺はこれ以上問い詰めようと思えなかった。いや、できなかった。俺の体がどんどん希薄になっているのが分かる。意識も朦朧とし始めている。
「どうか、蓮様がもうここに来ずに済みますように……」
 その声とともに俺の意識は消えていった。