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生きかえりの鏡 第2話

 第2話

「まったく……。いくら美菜さんの事があったからって、二日も家出なんて何を考えているの?」
 過去で丸一日を過ごした時間の流れは今の時間と全く同じだった。
 普通帰ったら数分しか過ぎていなかったとか気を利かせるものじゃないのかと思ったが、美菜のこともあって深く詮索されずに済む。
「でも、なんで着物なんか着ていたの?」
「それは……」
「着ていた洋服はどうしたの? あれってお母さんが買ってあげたシャツじゃなかった?」
「ごめん、なんか色々あって覚えてないんだ」
「散々心配かけておいてこの子は……」
 そう言うと母さんは大きなため息をついた。
 俺は机の上に置かれた畳まれた着物を見つめる。
 気がついた時、着物は着ていたけど刀は持っていなかった。
 意識が遠くなったあの時、たしかに刀を握っていたのにと思い俺は皮のむけた手のひらを見る。
「優菜ちゃんが心配してたわよ」
「優菜が?」
「学校を休んでたから何かあったのかって。今度、話してあげてね」
「わかった」
「病院でどこも悪くないって言われたから明日は登校するのよ。じゃないとますます成績落ちちゃうから」
「……父さんは怒ってる?」
「出張で家に居なくてよかったわね」
「帰ってきたら謝るよ。心配かけてごめん」
 俺が頭を下げると母さんはそれ以上何も言わなかった。

「蓮」
 翌日の放課後、優菜が校庭で俺を待っていた。
 どのくらい待っていたんだろうかと思い俺は急いで駆け寄る。
「おばさんから聞いたよ。2日間どこに行ってたの?」
「……江戸時代に」
「冗談言わないで」
 優菜はまるで信じていない顔で睨みつける。
「ごめん。でも本当なんだ」
 俺が謝ったのが意外なのか、今度は目を丸くして俺を見つめてきた。
「……何かあったの? その手もどうしたの?」
 包帯を巻いた手を見て不審、いや心配そうな顔をする。
「なんでもないよ」
「のらりくらりしてる」
 優菜の言葉にまさにそのとおりだ、と俺は思った。
 俺は確かに江戸時代に行った。そして命を狙われた。だが、今は何もできないしどうにもならない。
 もう、忘れよう。
 そう思いかけたその時。
 優菜が何気なく首に手を当てた仕草を視線で追った俺はその首筋に薄っすらと赤い線を見つけた。
「優菜!」
「えっ?」
 思わず大きい声を上げ、優菜が怯えた顔をする。
「ごめん、その首の……何?」
「何ってなに?」
「気づいてない?」
「えっ……」
 俺が指摘すると優菜は鏡を取り出し首を見て息を呑む。
「なにこれ」
「かゆいとか痛いとかは?」
「……ないけど。なんだろこれ。ええ? 首ぶつけたりなんかしてないよ?」
「優菜、あのさ、家系図って見せてもらえるかな」
「ウチの?」
「前、美菜に見せてもらったことがあるんだ」
「……いいと思うけど」
 どうにも胸騒ぎがする。俺は戸惑いを残しつつも家に上がらせてもらい、美菜の部屋に置いたままだった家系図を見せてもらった。
「これでいい?」
「ああ。……うん、この前見た本だ。……うん、系図は変わってない……」
「他人のほうがウチの家系図に詳しいってなんか不思議な気分」
 優菜は複雑そうな顔で一緒に家系図を覗き込む。
 ただの杞憂かと思いつつ家系を遡っていると、ふと違和感に気づいた。
「……ゼンジロウ」
「え?」
「足りない」
 血の気が引く、という感覚を始めて感じ、寒気すら覚えた。
「何が? ページ?」
「三人兄弟だって美菜は言ってた。それが二人になって、今は一人になっている……!」
「何言ってるの? 家系図が勝手に書き換わるなんてないでしょ」
 ああ、こんなやり取りがあった、とあの時を思い出す。
「……見せてくれてありがとう。俺、帰るよ」
「そう? こんな時間だし夕ご飯食べていかない? 蓮もいたら美菜も喜ぶと思う。なんなら食べたいの一緒に買いに」
「出ちゃだめだ」
 自分でも分かるくらい強い口調だった。
 優菜が驚いて俺の顔を見ている。
「ごめん、遅いから優菜は出ないほうがいい」
「あ、うん。……ありがと。気遣ってくれて」
 優菜は顔を曇らせながら笑った。
「それじゃ」
 俺はその場から逃げ出すように出ていく。
 足は小走りから駆け足に変わり、息を切らせながら家に戻る。スマホも財布も投げつけるようにして部屋に置き、代わりに机に置いてあったあの着物を掴んで外に飛び出す。
 落ちかけた陽は血のように赤く、不気味なほどに長い影を伸ばしていた。
 俺の足は無意識に動いている。
 ──優菜が危ない。
 確信にも似た予感が歩を止めることを許さなかった。
 向かう先は分かっている。あの社だ。
 藪に突っ込み、腰まで伸びた草をかき分けて進むと朽ちかけた社が見えた。
 壊れた南京錠をむしるように外し、扉を開ける。
 中には膝くらいの高さの棚があり、その上に緑青色の銅鏡が飾られていた。
 板間は足跡がつくくらいに埃が溜まっているのに、銅鏡にだけはチリ一つついていなかった。
「……頼む。俺をあの時代に連れて行ってくれ! 志水! 聞こえているか? あと、名前知らないあんた! 優菜が危ないんだ!」
 俺は着物に着替えながら銅鏡に向かって声を張り上げる。
 着替えが終わっても銅鏡に変化はない。俺は剣道を習っていた頃を思い出し、板間にどっかりと座して頼む、と頭を下げる。
「もう、誰も失いたくないんだ!」
 ──蓮様。
 はっと顔を上げると、銅鏡が重そうな色の光を放っていた。光が壁に当たり、龍の姿が浮かび上がる。
「これって魔境……?」
 鏡面に反射した光が銅鏡の裏面の模様を映し出す現象。これも美菜から教わった知識だ。
 けれど今壁に映る魔境の模様である二匹の龍はゆっくりと輪を描くよう光の中を泳いでいる。まるで生きているかのように。
 俺は立ち上がり、光を放つ銅鏡の前に立つ。
 ──本当に……よろしいのですか?
 俺は返事をする代わりに前に出る。
 銅鏡から放たれる光が渦を巻き、俺を包み込む。
 体が溶けた、と思った。

「っわ!」
 また空中に放り出された俺は転がるように受け身を取った。
 立ち上がり、深呼吸すると不思議とここはもう江戸なのだと理解できた。
 さっきは夕方だったのに今は深夜らしく月が真上にある。
「もしかして、ここで案外簡単に行き来出来るのかもな」
 ポータル確保だ、と少し気が楽になった俺は急いで神社の参道まで出て周囲を見渡した。
 とりあえず急いでこの世界の自宅である屋敷に向かおうとしたが。
 ──お気をつけて。
 神社に続く石段に出ようとした直前、ささやくような言葉が聞こえて俺は咄嗟に藪の中に身を隠した。
 小さな明かりが人魂のように由来で近づいてくる。近くにくるとそれは小さな提灯だった。
 麓から数人が石段を登ってくる。先頭は女性だ。巫女のような姿で、銅鏡を抱えながら歩くその姿はまるで浮遊しているかのようだった。
「あれは……?」
 その後ろを男女が数人ついて歩く。提灯の明かりは暗く目を凝らさなければわからないほどだったが、巫女に続いて歩く一人は志水の父、尚義に違いなかった。
 みんな首に紐でも括られているかのような不安定な足取りをしている。
 とても声を掛ける気になれない。
 俺は尚義たちが石段の向こうへ消えてゆくのを見送ってから石段を駆け下りた。

「志水! あなたはまた! 一体どこへ行っていたの? まるで放埒者ほうらつもののようですよ!」
「申し訳ありません……」
「夕餉は抜きです。反省なさい」
 腹は減っていたがどうにも逆らえそうにない、と俺は一晩我慢することにした。
「そういえば、父上を神社で見ました」
「神社? そんなわけないでしょう」
「でも……」
「父上は母上の菩提を弔うためにお寺に向かわれたのですよ」
「え?」
「四十九日が過ぎましたが父上は供養を欠かしたことはありません。それが何か?」
「いえ、何でもありません」
「そうですか」
 思わず変な声が出てしまい俺は慌てて平静を取り繕った。
 あの人は初めて会ったときも俺を見る目がどうにもおかしかった。
 寺に行くと伝えておきながら神社に向かい、さらに怪しげな女に着いていくなんて何をしているのだろうか。
「けれどね……」
 季揶が思い詰めた様子で口を開く。
「父上を疑うような真似はしたくありませんが、近頃、父上の様子がおかしいのです」
 くれぐれも内緒ですよ、と釘を差しながら季揶さんが話を続ける。
「少し前に父上は異教との触れ込みがあった場所に寺社奉行として様子を見に行ったのは覚えてますね」
「……はい」
「確か蘇生教そせいきょうでしたね」
「蘇生教……」
「何を教えているかは知りませんが神社で時折説法のようなものを開いているそうです。内容は信者でないと教えられないとか」
「まるで密教ですね」
「志水、軽々と密教などと口に出してはなりません」
「あ、はい」
 この時代、仏教の教えはかなりの力を持っていた筈だ、と俺は思い出す。
 少し前には陰陽師が術で政界を牛耳る存在でもあった。今の日本が苦しい時の神頼み、のような無宗教感あふれる世界だと知ったらどう思うだろうか。
「父上ともあろうお人が怪しげな教えに惑わされることはないと思いますが……」
 そういいつつ、季揶さんの表情には一抹の不安が滲んでいた。
 ──蘇生教。
 言葉通りなら人を生き返らせる教えなのだろうか。
 季揶さんの父親は一体何をしているんだ?
 俺を見たときの能面のような顔を思い出し、胸のざわめきは止まらなかった。