パン屋のジャイアン
ドイツに住み始めてまだ2〜3日目のこと。パンを買いに1人で近所のパン屋に入ったらオフィス街のランチタイムと重なり、レジまで長い列ができていた。
私は右も左も、もちろんドイツ語もわからない状態。一瞬ひるんだものの、社員食堂に紛れ込んでしまった幼児のような気分でドキドキしながら列の後ろについた。
並んでいる間、ショーケースに陳列された様々なパンを眺める。それぞれにパンの名前が書かれているのだがまずそのドイツ語が読めない。…読めるわけがない。
私の番が来た。英語でいけるかな?と思い、「これ1つとこれを…」と指差してオーダーし出したら店員のおばさん、途端に不機嫌になった。顔が怒ってる…というかそういうふうに見える。
見た目がサンドウィッチだったからドイツ語名は知らないけど、「サーンドウィッチ…」とアクセントをつけてみたりイントネーションを変えて何度か言ってみるも
「えっ??あんた何言ってんの?どれがほしいわけ?」
みたいなことを言っていたんだと思うが、とにかく怖い顔で迫ってくる。もう開き直って一生懸命ショーケースを指差して何とかほしいパンを伝えるしかない。
いや、こっちはドイツ初心者だよ、ドイツ語わからないってこと察してよ…と甘えたことを思うけど全く容赦なし。忙しい時間帯に流れを止めた私を迷惑そうに対応する。怖い。
レジでも自分の買うパンを口頭で伝えなければならずまた四苦八苦。パンの名前がわからないから既に紙袋に入れられたパンを開け、ひとつひとつ店員に見せて理解してもらう。慣れないユーロの支払いにももたつき、やっと店を出た時にはイヤな汗をびっしょりかいていた。
店員怖い…ドイツ語わかんない…英語通じない…!これがドイツでの「初めてのおつかい」体験。
近所だったから滞在していた5年の間に何度もこの店に通ったけど、初日に対応したあの店員はいつだって愛想がなく笑わず怖かった。大柄でいかつい顔をしたおじさんみたいなおばさん。私は密かにジャイアンと呼んでいた。
暮らしていくうちにわかったけど薬局や駅の窓口、高級店、一部のレストランでは英語が通じた。でもパン屋、スーパーではほぼ英語は通じない。だから簡単なドイツ語は覚えるしかなかった。
発音が悪いなりに私がドイツ語で注文するようになってもジャイアンの態度は変わらない。こういう人なのだと諦め、怪訝な顔で聞き返されても何度でも下手なドイツ語で注文した。図々しさだけは身についたと思う。
そんなこんなで4年以上経ったある日。その日は『カーニバル』という春の到来を祝うカトリックの行事期間中で、街は祭りの前の高揚感に包まれていた。
私の住んでいたデュッセルドルフや近隣の街ケルンでは盛大なカーニバルのパレードが行われることで有名で、その様子はテレビ中継されるほどだ。
普段は真面目で硬いイメージのドイツ人がこの時ばかりは誰もが仮装して酒を飲んだり大はしゃぎしたりして羽目を外すので、そのギャップが見られておもしろい。
商店もこういう日は早めに店じまい。私はそんな閉店間際のパン屋に入ったのだが、パン屋の年配スタッフまでおかしな仮装をして浮かれているのに目を疑った。まさかのジャイアンまで!しかもジャイアンが笑っている!
私に気がついたジャイアンが笑顔のままレジに近づいて来た。それはそれでいつもと違った怖さがある。
でもどうせぶっきらぼうに聞き返してくるんでしょ…?と構えながらオーダーしたら、なんと!!一度ですんなり聞き取ってくれるではないか!しかも最後までずっと笑顔の応対で。
苦節4年…ようやく、ジャイアンが笑って接客してくれた…!カーニバルって、ジャイアンまで笑顔にさせるパワーがあるとは!!
喜びと戸惑いで混乱状態の私は商品とお釣りを受け取り、ひきつった作り笑いを浮かべながら店を出ようとドアへ向かった。一刻も早く外に出て思い切り呼吸を整えたかったのだ。
それなのにドアに触れた自分の手が小刻みに震えていて全然力が入らない。ジャイアンの笑顔のおもてなしが想定外過ぎて私の体が変な反応を起こしてしまったらしい。それぐらいの衝撃なのだ。
両手で一生懸命ドアを押し、開いたわずかな隙間に体を押し込んで無理やり外へ出たけど、はずみでドアに手を挟んだほど私の動揺ぶりは凄かった。
ジャイアンが笑ってる…明るく応対してくれた…その初めての経験に、ジンジンする手の痛みも忘れて脱力したまま店の外で余韻に浸ったことを覚えている。
数年後に旅行で久しぶりに街を訪れた時、このパン屋にもわざわざ立ち寄った。もうジャイアンの姿はなかったけど私は今でもジャイアンの顔を忘れていない。あの時の笑顔も。
色々な意味で強烈だったジャイアン。勝手に失礼な呼び方しながらも実は私はいつかジャイアンに認めてもらいたくて通い続けていたのかもしれないなぁ。と思う。向こうは私のことなんか全く覚えてないだろうけど。
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