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あとがき02:好きな電車を追いかけていたら、いつの間にか沿線にどハマりして、同人誌を作ってしまった

※本記事は2022年末にリリースする新刊「仙石線・仙石東北ライン」のあとがきの一部です


沿線生まれでもないし、住んだこともない

実はわたし、元々は仙石線沿線どころか東北地方すら縁もゆかりもない人間なんです。それがなぜ仙石線・仙石東北ラインを題材にした本を作ろうと思ったのか、というお話をしたいと思います。

そう、これは鉄道車両を追いかけて来ただけなのに、その沿線の面白さにドハマリしてしまい、どうしても本を作らずにはいられませんでした、という壮大な物語です。


キラッキラ輝く私の「推し」

突然ですが、私は1988年生まれです。物心ついた頃の世の中といえば、アナログからデジタルへの切り替えが始まったばかり。携帯なんて全然普及していなくて、PHSもポケベルもまだ。パソコンはたまに持ってる人がいるレベル、みたいな時代でした。LEDが真新しいなぁ、という感じ。マグサインがカッコよかった時代。「デジタル」とか「ハイテク」なんて言葉が最先端な感じでした。

ここで街中に目を向けると、中央線といえばオレンジ一色、京浜東北線といえば水色一色が当たり前の時代でした。そんな中、山手線ではメタリックボディに黄緑色の帯を締めた電車が走っていました。もちろんステンレスの光沢で輝いていたんですが、それ以上に当時幼児だった私には205系がキラッキラ光って見えたんですよね。都会の合間を、11両という長さでうねるように走り抜ける。今じゃステンレスボディの電車なんて当たり前に走ってますけど、当時のJRはまだまだ全面塗装が主流。とにかく新しく見えたし、輝いて見えました。それが私と推しとの出会い、205系との出会いでした。まあ、京浜東北線にも水色一色じゃない電車がいたんですが、よりによってそれも205系なんですよね。

今も反射以上に輝いて見える(個人の感想です)

その後時代は進んで、世の中では例えばスーファミからサテライトシステムの時代を経てプレステの時代になり、ゲームがカセットではなくてCDになったというのが衝撃的でしたが、鉄道界にも209系という電車も登場します。205系との違いは一目瞭然。なんといっても側面の凸凹が少ない。そして車内にはLEDで「次は 中浦和」とか出るっていう、未来の電車でしたね。でも、私はマグサインみたいなデジタルになりかける時代をカッコいいと思っている世代の人なので、209系の側面よりも205系の無骨な側面の方が自分の世代だなぁと思うわけです。ある意味、この感情ってスチームパンクに憧れるような心境なのかもしれませんね。VVVFインバータの実用化が進んでいた時期に、敢えて抵抗制御から界磁添加励磁制御を生み出したのって、ジェットエンジンを作らずに蒸気機関で空を飛ぼうとするのと似ているような気がします。

こうして時代にはついていかずに、205系を愛し続ける人生がはじまりました。


その者、青き帯を纏いて宮城野に降り立つべし

とはいえ物には終わりというものがあります。2002年から205系は山手線から引退を始めました。とはいえ、この時点ではまだまだ使える状態だったので、205系は各地へと散っていくことになります。その中で登場したのが、仙石線むけの3100番台でした。もともと私は浦和区のスカイブルーの205系が好きだったのもあって、3100番台の青い帯も大変気に入りました。

青が美しい

あと、仙石線で思い出すのが「鉄道ファン」という雑誌の1998年5月号です。特集は「4扉通勤型電車の軌跡」、新車ガイドは故郷の京急2100形、そしてこの時の表紙が仙石線に転属したばかりの高運転台の103系でした。この時に、東北に103系が走っているんだということが強く印象に残りました。この頃はまだ東北に行ったことがなくて、遠い土地の路線だと思っていて、その路線で本を作ることになるとは思っていませんでしたけれども、何となく乗りたいなぁと思っていました。

ちなみに余談ですが、特集の「4扉通勤型電車の軌跡」も新車ガイドの京急2100形の紹介文も書き出しがポエムで、ポエム書きがちな私の原点は「鉄道ファン」1988年5月号にあるのかもしれません。

もうひとつ余談を重ねると仙石線と京急って、SUPER BELL`Zの「MOTER MAN Vol.3」もこの組み合わせでリリースされているんですよね。仙石線に乗ってみたいなぁ、という憧れが強まったCDでした。なお、今作の頒布価格を1003円にしようかと思いましたが、単に面倒になるだけなのでやめた、という小ネタもあります。


あの日、乗らなかった電車への後悔

さて、時が過ぎて2009年夏。ようやく仙台を訪れることができました。ただ、この仙台訪問は京都から日本海周りで新潟を経由して、磐越西線で郡山に入って、夜に仙台に着いて、翌日の昼に東京へ向かって中央線周りで帰る…というスケジュールの一部でしたので時間がありませんでした。このとき仙石線に乗ったのは仙台-あおば通間の一駅だけ。「石巻」の二文字を掲げた電車を見送りながら、石巻まで乗るのは別の機会にしよう。また今度乗りに来よう、と思ったのでした。

しかし、その1年半後。東日本大震災が発生します。

私自身は京都に住んでいたので被害状況はテレビを通してしか知ることが出来ませんでしたが、慌ただしく原稿を読むアナウンサーの姿と、新しい情報が入るたびに悪いニュースが積み重なっていく状況に、一体東日本で何が起きているのだろうと呆然としたのを覚えています。そしてある時、テレビには津波に流されて脱線した仙石線M9編成の姿が映し出されました。

線路は流され、何より沿線で多くの人命が失われ、街並みも失われてしまった、ということを知り、2009年夏に石巻行きの電車を見送ってしまったことを私はとても後悔したのでした

2009年夏には、のちに石巻駅で被災したM7編成も見送っていた

結局、再訪が叶ったのは2012年の夏。停車駅案内には高城町-陸前小野間が不通であることが書かれていて、それを見て、ああ、この電車は高城町から先に行かないんだ、何で私はあの時、あの電車に乗らなかったのだろう、松島湾を眺めながら進む東名カーブ、あの車窓を見たい…、と、改めて2009年夏に石巻行きに乗らなかったことを後悔しました。

不通区間の存在を示す停車駅案内

2015年5月。東名駅と野蒜駅が高台に移転し、仙石線は全線での運転を再開しました。ようやく、あの日乗ることが出来なかった石巻まで仙石線に乗ることが出来ました。しかし、移設前の東名の車窓は、もう、どうしたって見ることが出来ません。

そしてもう一つ、失われたものがあります。仙石東北ラインが運転を開始したのと引き換えに、205系による快速電車の定期運転が終了したのです。103系から受け継いだ歴史が途絶えるという事実もまた、悲しいものでした。

最終日の最終電車を見送っていた人はあまり多くなかったと思います。ちょうどこの日は、首都圏で南武線を走っていた205系が海外譲渡のために新津まで回送されていたのですが、そちらには人が集まっていたことが話題になっていました。人出の違いに寂しさも感じた夜でした。

最終日の上り最終の快速電車を待つ多賀城駅

2015年5月30日。野蒜と東名を歩きました。この時はまだ、駅だけが出来た段階で、宅地は完成していませんでした。そして旧線跡はといえば、レールは外されていたものの、線路脇にあったはずの機器箱が横倒しになって転がったままになっていたり、踏切注意の看板が踏切跡の前に取り残されていたり、復興道半ばであることを実感させられました。それからというもの、野蒜と東名は今どうなったのか、復興は進んだのだだろうかと、以前にも増して気にするようになりました。

2015年5月の旧線(野蒜-東名)にて

こんな感じで、2009年夏に石巻まで行かなかったことの後悔。これがひとつ、本を作ろうと思ったきっかけです。


調べてみると、本がぜんぜん無い。

ところで、仙石線が開業時には「宮城電気鉄道(通称、宮電)」という私鉄の路線だったことは前に書きましたが、東名から野蒜にかけての一帯は宮電が観光開発をした土地でした。少し調べて、海水浴客向けの建物があったり、バンガロー村を開いたりと色々していたらしい、ということがわかって、このころの宮電はどういう経営をしていたのだろう、と、仙石線の過去にも興味が出てきました。

この頃にはもう、仙石線を題材にして本を作ろうかなぁという気分になっていたので、宮城県図書館で色々と資料を探してみることにしました。ただ、私はクルマが運転できない人なので、仙台駅からバスで1時間掛けて行きました。遠い…。

遠かった

そこで3冊の本に出会います。「宮電の三世観」「宮電の回顧と其将来の検討」「軍の宮電への要望に対する私見」というタイトルで、宮電の初代社長を務めた山本豊次氏によって書かれた本です。これらの本では、線路を引こうとしたときに色々とひと悶着があったことが述べられていたり、軍部から色々な要求があったことが墨塗り交じりで詳細に書かれていたり、色々と興味深かったのですが、何より衝撃的だったのは、この三冊以外に資料が中々見つからなかったことです。

例えば、鉄道雑誌で仙石線の取り上げられる時は「東北の鉄道」とか「昔、私鉄だった路線」といったテーマが扱われた時の、その中の一項目として仙石線が出てくるという感じで、なかなか仙石線単独で取り上げられる機会がありませんでした。Amazonで検索しても西村京太郎サスペンスは出てきますが、それは仙石線を紹介した本っていうのとは少し違いますし、あとは東北大鉄研さんが「あおば」で特集を組まれたことがあるのが、ほぼ唯一の事例かな、という感じでした。その後、一応色々調べたら何冊か見つかりましたが、絶版になっていたりして簡単に入手できる本ではありませんでした。

これだけ仙石線には面白そうな歴史があるのに、ぜんぜん本が出ていない。
私が作らなくては。そう思いました。
今作は「王道の構成」、「網羅的な内容」を目指したのは、こういった経緯があります。


もっと調べると色々面白かった

そして本格的に本作りに取り掛かったのですが、調べてみるとさらに色々と面白いことがわかってきました。

例えば宮電の創業時のことですが、初代社長を務めた山本豊次氏は東大理学部の出身で、しかも専攻は化学という鉄道とは縁の無さそうな経歴の持ち主です。さらに生まれは山口県なので、東北とも関係がない人物でした。そんな彼が細倉鉱山という鉱山の技師として働き始めたことで、予想外の、そして時代の流れに翻弄されるような歴史が始まります。詳しくは後日改めて書きたいと思いますが、連続テレビ小説か大河ドラマが作れるんじゃないかというくらい面白いエピソードがあります。

また、宮電は私鉄だったと書きましたが、戦時中に国に買収されて仙石線になったという経緯があります。「戦時中の国有化」と聞くと、抵抗することも出来ずに無理矢理買収された、というイメージを持ちますし、他の路線では無理矢理買収されたという話も聞きますが、どうやら仙石線に関しては色々と抵抗をしていたらしいことがわかりました。

というのも、山本豊次氏の著作のひとつに「軍の宮電への要望に対する私見」という本があるのですが、これが出版されたのが1941年。宮電が買収されたのは1944年で、軍から宮電に路線改良などの要望が出てきてから、国に買収されるまで時間があったことがわかります。まあ、1941年の時点では国が買収することは視野に入っておらず、この時点で軍から出た要請は、塩釜まで線路を複線にしてくれ等々で留まっていたので、そこから3年で国有化された、という点では話が進むスピードが速かったといえるかもしれないですが。

そして、ここで面白いのは、豊次氏は自著の中で、資金が無いので要望に応えるのは簡単ではない。軍部からの要請なのだから、借金をするときには軍部の力を得られないだろうか、みたいなことを書いています。そして国に買収する流れになってきた時にも、直近で儲けをしっかり出して、出来るだけ高い値段で国に買い取ってもらおう、みたいなことを書いています。買収金額の計算式に、直近の利益がどの程度出ていたかという要素が含まれていたわけですね。

こんな感じで、宮電の国有化に関しては「成すすべなく国に強制的に買収された」というよりも、「国有化されるにしても出来るかぎりのことはやっておこう」というスタンスで宮電が動いていたことが伺えます。

こんな調子で、調べてみると色々出てくる。あれも書きたいこれも書きたい、と思っているうちに色々なエピソードが集まって、結果的にボリュームが膨れ上がって162ページになりました。


正直に言えば、折り目正しく、王道な構成で網羅的に何かを紹介する、というのは私の性に合っていません。それでも、この本を作りたいと思えるような要素が仙石線にはありました。いやむしろ、私は天命によってこの本を作らされているのかもしれません。


憧れと、後悔と、好奇心と、義務感と。いろいろな感情が綯交ぜになって生まれた一冊ができました。私が見て、そして感じた仙石線・仙石東北ラインがここにあります。ぜひお楽しみいただければ幸いです。

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