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100年以上昔の観光ガイド本と行く 京阪電車沿線の旅(京橋編)

京阪電車、という電車をご存知でしょうか。大阪と京都を結ぶ私鉄です。大阪と京都の間にはJRや阪急も通っていますが、京阪の本線は淀川の南側を走っている点が他2路線との大きな違いです。そして京阪電車の開業は1910年のことなので、100年以上の歴史のある鉄道会社です。

さて、そんな歴史ある京阪電車が、その歴史の第一歩を踏み出した時に「京阪電気鉄道線路案内」という書籍が発行されています。要するに今でいうところの観光ガイドです。そして、実はこの書籍は、国会図書館のWebサイトで全文が公開されています。一部、かすれなどで読みにくい点もありますが、iPadからも閲覧できるので、この100年以上前の旅行ガイドを手に今の現地の様子を見に行ってみる、なんてことも出来てしまいます。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765668/1

なので、どんなスポットが載っていたかを紐解きつつ、何か所かは実際に行ってみた、というお話の連載です。


京橋

駅の名前として認識されることの多い「京橋」ですが、その名前の由来になった橋は駅から少し離れた場所にあります。その所在地は現在の天満橋駅から東へ約500mほど離れた場所で、京阪電車の線路が地上に出てきた直後の地点です。大阪に土地勘がある人ならば、日経新聞のビルがあった付近、といえば伝わるでしょうか。

駅名のほうが有名になってしまった「京橋」

ところで、いまでこそ駅と橋は離れた位置にありますが、京阪電車の開業当時には橋の京橋の近くに「京橋駅」が存在していました。そして、それとは別に蒲生(がもう)という駅があったのですが、のちに橋の近くにあった京橋駅は廃止になり、その後、蒲生駅が国鉄の京橋駅に合わせて改名したために現在のような位置関係になった、という経緯があります。要するに、国鉄にとって京橋に一番近かった駅が京橋と名乗っていて、それに京阪が合わせたため、京阪にとっては妙な命名になってしまった、というわけです。なお、先代の京橋駅は「線路案内」冒頭の路線図にも記載されいます。国会図書館デジタルコレクションに掲載されているデータでは分かりにくいですが、よく見るとそれらしき駅があります。

ちなみに「線路案内」では「東方遥かに、生駒、金剛の連山を望み」と書かれていますが、現在ではその手前にOBP(大阪ビジネスパーク)のビル群が建ち並んでいて山を見ることは難しくなっています。100年前とは建物の高さも大きさも随分と変わったことを実感させられる一文です。

生駒方面にはOBPのビル群が見える

大阪城

京橋付近を通り過ぎると、京阪電車の車窓からは大阪城の天守閣が見えてきます。改めて紹介するまでもなく大阪のシンボルであり、「線路案内」の中でも1.5ページほどの紙面を割いて解説されています。

ただ、この解説文をよく読むと「英雄豊臣秀吉」に対して「逆臣明智光秀」と明らかに秀吉寄りの立場が取られていたり、「(徳川)慶喜夜に乗じて逃る」と書かれている箇所があったりと、アンチ徳川のような表現が散見されます。これは「線路案内」の著者の趣向、というよりも、どうやら当時の世相の影響がありそうですが、この件は後で改めて触れたいと思います。

ところで、現代の我々が「大阪城」と聞いて思い浮かべるのは天守閣だと思いますが、実は「線路案内」では触れられていません。いや、正確には触れようが無かったのです。なぜならば、明治時代には大阪城に天守閣は存在しなかったのです。実は、大阪城の天守閣は江戸時代に落雷によって焼失しており、幕府の財政の問題もあって再建されずに明治維新を迎えていたのでした。なお、「線路案内」の後半に記載がある通り、明治末期の大阪城は陸軍の第四師団が置かれ、現役の軍事施設として利用されていました。

大阪のシンボルのひとつ、大阪城天守閣

では、今ある天守閣はいつ建てたものなのか?というと、昭和6年のことです。きっかけは、当時の關一市長の呼びかけ。市の財政が厳しい中で、その建設費は募金に頼ることになったものの、市民から寄付金が集まり、さらに大阪創業の大林組がディスカウントで工事を引き受けて完成したものです。ちなみに關一市長の在任期間中(1923年〜1935年)には御堂筋の拡張、地下鉄御堂筋線の建設、大阪港の修築など、現在の大阪の基盤になる事業が次々と進んだ時期でもありました。そんな都市の基盤整備が進む中で、大阪城の天守閣は心の基盤となったのです。

なお、豊臣氏が建てた天守は30年、徳川幕府が建てた天守は39年で失われてしまいましたが、この昭和6年の天守閣は第二次世界大戦も耐え抜き、2021年で90周年を迎えました。つまり、大阪城の歴代天守の中では、現在の天守閣が最も「歴史」のある天守ということになります。

網島・大長寺

さて、「線路案内」では大阪城に続いて網島と大長寺について紹介しています。「線路案内」を詳しく読んでみると、網島は「市街の塵烟(じんえん)を避け」「花晨月夕(かしんげっせき)四時の景色に宜し」と、都会の喧騒から離れた景観の良い場所として紹介されており、そして大長寺は近松門左衛門の「心中天網島」の舞台として紹介されています。現代風に言えば「都心のオアシス」と「聖地巡礼スポット」ということになるでしょうか。案外、このあたりの感覚は明治時代と今とで差が無いのかもしれません。

ただ、現在の付近一帯はマンションが建ち並んでおり、後述する藤田邸跡公園以外は市街地化されています。100年の時を経て、網島は市街の塵烟を避けるどころか市街の中心になってしまったわけで、時の流れを感じます。

ところで、「線路案内」7ページ目の中ごろには以下のような記載があります。

されど近年富豪藤田某寺域を買収して別業を営み、寺は多くの由緒を黄金の光に抛ちて網島停車場の傍に移されたり

「線路案内」

この「藤田某」とあるのは藤田財閥創始者の藤田伝三郎氏のこと。現代でも半ば皮肉かギャグとして「意味を成さない伏字」を使う場面はありますが、明治時代にも似たような文化があったのか、と妙な感動を覚えますが、それはさておき、大長寺は「線路案内」の記載の通り1909(明治42)年に移転しており、現在は東野田バス停の近く、京橋駅からも少し歩けば訪問できる場所にあります。実際に訪れてみたところ、門にはきちんと「心中天網島」ゆかりの地であることが書かれた案内板が貼られていました。

一方の元の寺域には「線路案内」に書かれている通り藤田氏の所有地となり、藤田氏の邸宅となりました。しかし紆余曲折があり、現在は藤田氏が収集した美術品を展示する藤田美術館や藤田邸跡公園などが立地しています。また、地下にはJR東西線が通っており、大阪城北詰駅の3番出入口も設けられています。これもまた100年という時間の流れを感じさせる景色の変化でしょうか。

大阪城北詰駅の3番出入口

ちなみに、網島と大長寺の次、「線路案内」では桜の宮、造幣局、泉布観、森の宮、豊津稲荷、真田山、鴫野(鷸野)、母恩寺、鵺(ぬえ)塚、長柄橋跡、鶯塚と京阪の線路からやや離れた位置の紹介が続きます。これらのスポットは明治末の時点でも京阪の駅は最寄り駅ではなく(例えば桜ノ宮駅は1898年開業、玉造駅は1895年開業)、やや無理矢理紹介しているような印象があります。もっとも、ちょっと遠いスポットを最寄りとしてやや強引に紹介することは現代でもたまに見かけますが。

京橋よりは桜ノ宮駅のほうが近い櫻宮

榎並の舊(旧)塞

さて、ようやく京阪沿線に戻って登場するのは⑳榎並の舊(旧)塞です。現代では「榎並城跡」と紹介されているこのスポットは、戦国時代に三好政長が築いた城で、現在の野江内代駅付近にあったそうです。

そして南北朝時代には楠木正儀が陣を構えた地でもあり、「線路案内」にもその旨の記載があります。いや、むしろ「線路案内」には三好政長の名前は出てこずに、楠木正儀の逸話のほうが詳しく書かれており、非常に奇妙なバランスになっていますが、この件も次回詳しく述べたいと思います。

高瀬の淀

「線路案内」の「大阪市線路附近」のページの中で、最後に出てくるのは「高瀬の淀」。古くから和歌に詠まれてきた歌枕で、高瀬川の流れを指していました。現在では高瀬川はなくなってしまったものの、文中に記載のある「高瀬神社」は今も土居駅の近くにあります。

ただし、この付近は守口市(「線路案内」が書かれた当時は守口町)であり、「線路案内」がこの場所を「大阪市線路附近」の章に含めている意図は謎です。


前回と今回、駆け足で大阪市内のスポットを巡ってみましたが、「線路案内」で紹介されている大阪の名所には大まかに2つの傾向があるようです。ひとつは、橋や船など「水」にまつわるもの。もうひとつは、寺社・旧跡、すなわち「歴史」に関わるものです。「水」は今日の大阪観光でもアピールされる点ですが、寺社・旧跡の類は現代では表に出てくる機会は少ないかなと思います。実際のところ、私も今回初めて知った場所も多くて勉強になりました。

なお、「線路案内」で紹介されたスポットのうち、明治以降に出来たものは、造幣局と泉布観、それに架け替えられた天満橋と天神橋が紹介されている程度で、例えば1903年に建てられた日本銀行大阪支店旧館や1904年に開館した中之島図書館などは取り上げられていません。この後の章もあまり明治の建物は出てこないので、もしかすると、「線路案内」では歴史的な名所を優先して収録する編集方針だったのかもしれません。

(つづく)


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