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同人誌「横須賀線・総武快速線」試し読み その8:横須賀・総武 直通開始

はい!みなさんこんばんは、長沢めいです。

いま、冬コミに向けて「横須賀線・総武快速線」の同人誌を制作中ですが、今回のコミケでは会場での立ち読みを不可とさせて頂くことに致しました。そこで、事前に内容をある程度お見せしたい!と思いまして、冒頭部分を中心に何回かに分けてnoteで公開していきたいと思います。

ちなみに、メロンブックスさんでは冊子版の予約受付を開始しています!
(※電子版は後日公開予定です)

今日は、横須賀線・総武快速線の歴史について概説したパートの8つ目、「横須賀・総武 直通開始」をご紹介します!
(※文面は今後、調整する可能性がありますのでご了承ください)

なお、マガジンにまとめてますので、他の記事はこちら↓からご覧ください


横須賀・総武 直通開始

五方面作戦によって工事が始まった「横須賀線の東海道線からの分離」と「総武快速線の建設」。先に完成した総武快速線側では早くも混雑率が低下し、すぐにその効果を見せ始めましたが、一方で横須賀線側の工事は難航していました。ここでは直通運転開始までの工事の状況を追ってみましょう。

■先行開業した総武快速線

まず総武線側ですが、先述の通り「東西線への乗り入れ(1969年完成)」と「総武快速線の建設」が平行して進められました。そして総武快速線の建設工事をさらに細かく分けると

・東京-両国間の地下線(約2.7km)
・両国-津田沼間の複々線(約24km)

に分けることができ、加えて、幕張電車区の設置や貨物列車用の設備の統廃合なども行われました。

大規模な工事ではありましたが、両国-錦糸町間では用地が戦前に確保されていたことや、成田空港の建設に伴って成立した「成田財特法」による財政支援を受けたことなどが追い風となり、1965年4月着工、1972年7月に開業の日を迎えています。

なお、同時期には千葉県内各線の電化も進められ、総武快速線の開業までに、総武本線と成田線の千葉-成田間(1968年)、内房線全線(1971年)、外房線全線(1972年)などの電化が行われました。これらの路線には総武快速線からの直通電車が設定されたほか、内房線と外房線へは183系電車による特急列車「さざなみ」・「わかしお」も新設されました。

「さざなみ」・「わかしお」は房総地区初の特急で、1975年に登場した「しおさい」・「あやめ」などとともに千葉県内の特急網を構築しました。総武快速線は通勤輸送対策だけでなく、中・遠距離輸送にも貢献したのです。

■難航する貨物線工事

一方、横須賀線側の工事は1966年に始まり、先述のように大船-品川間では貨物線を転用して品川からは地下線を建設する、という計画でした。しかし計画当時はまだ貨物列車の本数も多く、貨物線を転用するためには代替となる貨物線が必要でした。そこで、具体的には以下のような工事が行われました。

・東戸塚-鶴見間に羽沢経由の貨物線を建設し、羽沢に貨物駅を新設する
・品川区八潮に東京貨物ターミナル駅を建設し、鶴見駅までの貨物線を整備する
・同時に、鶴見から武蔵野線 府中本町へ向かうルートを整備する

これらの工事によって品鶴線を走行していた貨物列車を羽沢から東京貨物ターミナル駅に向かわせるようにし、もしくは武蔵野線経由で東北方面や常磐方面へバイパスさせて、品鶴線を経由する貨物列車を削減。そこに横須賀線電車を通す、という計画でした。

しかし、建設にあたっては地元からの強い反発が起こります。これらの建設計画が立てられた時期は、ちょうど公害問題が世間の関心を集めるようになった時期でもあり、国鉄自身も新幹線の騒音を巡る訴訟を起こされていました。加えて、東戸塚-羽沢-鶴見間に関しては貨物列車用の新線になるため地元へのメリットが無く、交渉には非常に時間を要しました。

また、品鶴線の沿線からも反対の声が上がります。横須賀線の電車は貨物列車よりも高速・高頻度で走行するのだから、騒音や振動の問題が生じるのではないか、という主張です。鉄道の騒音に関しては、1975年に新幹線に対して環境基準が定められたばかりで、横須賀線など在来線に対する国の基準は存在しなかったのです。

国鉄側も問題は認識しており、レールや枕木の交換などの対策を講じましたが効果は十分でなく、品川区内では横須賀線運行開始後に100ホンを越える値が計測される地域も見られました。このため、国鉄は追加の騒音対策に追われることになりました。

■直通運転の開始

このように国鉄側の調整不足もあって横須賀線側の工事が難航していましたが、一方の総武快速線は1972年の開業以来、利用者数が増え続け、次第に東京駅では地上へ向かうエスカレーターが混雑するようになり新たな問題となっていました。

そこで1976年10月のダイヤ改正では、総武快速線の一部列車を品川駅まで延長運転することになりました。貨物線の件が難航しているうちに東京-品川間の地下線が完成してしまったので、横須賀線よりも先に総武快速線が使用したわけです。このため、当時の品川駅では「地下からやってきた総武快速線の113系」と、「東海道線の線路を走っている横須賀線の113系」という、同じカラーリングでも全く別系統の電車が並ぶようになりました。

1980年10月1日、いよいよ横須賀線の線路が切り替えられ、東海道線との分離と総武快速線との直通運転が開始されました。ラッシュ時の混雑率は東海道線では291%から240%へ、横須賀線では311%から206%へ減少し、一定の効果を示しました。

■東西で評価が割れる

ところで、横須賀線では100%以上の混雑緩和が見られた一方で、東海道線では50%程度に留まっているのは何故でしょうか。それは所要時間差に原因があります。

直通運転開始時に「鉄道ピクトリアル」に掲載された記事(「横須賀線と総武線のスルー運転」 猪口 信・34(8))では、1.品鶴線を経由して距離が長くなった上に、2.横須賀線は東海道線よりも停車駅が多く、3.さらに東京駅では地下から地上まで3分余計に時間が掛かる、という要素が重なった結果、大船-東京間では合計8分の差が生じている、と指摘しています。

この点、総武線側では「東京駅で地上に上るまでのタイムロスを踏まえると、各駅停車ではなく快速電車を東京駅に向かわせるべき」と判断されており、総武線側の選択が正しかったといえます。ただ、当時の東海道線はブルートレインをはじめ中長距離列車も多く、車両も多種多様だったことを踏まえると、東海道線を地下ホームへ回すことは難しかったといえます。

なお、保土ヶ谷駅の停車の有無に関しては、戦前から横須賀線の電車のみが停車し、東海道線の列車は通過していた、という慣例を踏襲した形になっています。

このように、いくつかの事情は察せられるものの、やはり東海道線に比べて横須賀線が不便になってしまった点は否めませんでした。ただ、それと引き換えに横須賀線を選択する利用者が減ったため、「東海道線よりも空いている」と評する人もいたようです。

1981年に津田沼-千葉間の複々線化が完了し、各駅停車と快速電車の線路が分離されました。これをもって現在の「横須賀線・総武快速線」というルートが完成したわけです。

工事の進捗も開業後の評価も対照的だった両路線。直通運転開始から40年以上が経ちましたが、走る電車の色は同じにも関わらず、各路線のカラーは今も色濃く残っているようです。

東京駅地下ホーム
ちょうど鉄道開通から100年となる1972年に開業。
動輪の広場の銘板にも「鉄道100年」の文字が刻まれています

次回で概説部分のご紹介はラストになります。お楽しみに!

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