見出し画像

あとがき04:仙石線開業時の需要予測が外れたのは伊達政宗のせい?

鉄道の同人誌なのに奈良時代から始まる

今回の冬コミの新刊「仙石線・仙石東北ライン 海風回廊64.0」のあとがきを連載でおとどけします。今回は沿線の歴史をさかのぼって考えてみると、路線のことがわかったような気がするからですよ、というおはなしです。


「経済関係の極めて薄い各独立した都市」

今回取り上げたいのはこちら。仙石線の前身・宮城電気鉄道(通称・宮電)の初代社長だった山本豊次氏は自著の中に記した下記の発言です。

仙台市と石巻市とは経済関係の極めて薄い各独立した都市の観があります。事実乗客の移動範囲を見まするに鳴瀬川を境とし、西は仙台市に、東は石巻市に集中移動して居ります」

「宮電の回顧と其将来の検討」

宮城県で人口最大の都市は言わずもがな仙台市。そして二番目は石巻市です。宮電が開業した頃も、宮城県下の主要都市の一つでした。ですので、宮電としては仙台と石巻を行き来する人は多いだろうと見込んで線路を引いていたわけです。ところが、実際に電車を走らせてみると、仙台と石巻の間を通しで乗る人は予想よりも少なく、一方で仙台から塩釜までの間は予想よりも利用が多いということがわかりました。このため、仙台から塩釜までは輸送力が足りず、一方で塩釜から先はお客さんを呼び込まなければならない、という正反対の問題を抱えてしまったのでした。しかも、宮電は色々あって経営が苦しく、さらに世の中は昭和恐慌などで不景気、という、大変厳しい状態にありました。

実は、仙台と石巻の間を行き来する人が多くない、という話は今もあって、2020年の国勢調査では、石巻市全体の就業者・通学者数は79,399 人。そのうち市内で働く人や市内へ通学する人は63,644 人。仙台へ向かうのは3,013人というデータも出ています。石巻は今も経済関係の極めて薄い独立した都市だということです。なお、隣の東松島市では、旧矢本町域では仙台よりも石巻へ向かう人が多く、旧鳴瀬町域あたりから仙台へ向かう人が多くなっていく、というデータもあり、鳴瀬川を境にする、という状況も、仙石線の開通時から変わっていないようです。

ではなぜ仙台と石巻の間で人の行き来があまり盛んでは無いのでしょうか。色々と原因を考えることはできますが、実は宮電の需要予測が大外れしたその原因は、江戸時代にあり。といってもいいと思います、という話をしたいと思います。その話をするために、一度、奈良時代に遡ってみます。


政治と軍事の拠点だった多賀城の栄枯盛衰

奈良時代、といえば何と素敵な平城京。東大寺の大仏が出来たり、みんな大好き「墾田永年私財法」が出来たりした時代ですが、大和政権が東北地方で勢力圏を拡大してきた時期でもあります。その中心を果たしたのが「多賀城」という役所でした。奈良の都の出先機関、東北地方の行政の中心地として、もしくは軍事基地として機能した場所でした。また、多賀城から丘を越えたところには千賀の浦という港があり、ここが多賀城への海の玄関口として発展しました。この港が今の塩釜港のルーツになっています。

古代から栄えてきた塩釜港

ちなみに余談ですが役所としての多賀城が出来た経緯は石碑に刻まれていて、今もその石碑が残っています。いや実は一度行方不明になっていたのですが、それが江戸時代に「発見」されて整備されたものが今も残っています。そしてこの石碑の面白いポイントは、かの水戸光圀がこの石碑を保護するために周りに囲いを建てるように仙台藩に助言をしたらしい、という話が残っているのです。

水戸光圀といえば、水戸黄門のモチーフになった人で、我々の感覚からすると歴史上の人物です。その歴史上の人物が、歴史的な石碑を保護しろと言っている、という構図が何だか面白いですよね。いや、水戸光圀の時代には、水戸光圀は歴史上の人物ではなく今を生きる人なんですけどもね。ただ、歴史に歴史が重なっていく感じがあって、こうして歴史って積み重なっていくんだな、としみじみ感じたりもしました。

多賀城碑。外側の東屋は水戸光圀の勧めで建てられたものだという

さて、そんな多賀城ですが時代が下ると廃れて、なんやかんやあって(「なんやかんや」の内容はちゃんと本作書いてあるのでここでは割愛)、いまの宮城県のあたりは、室町時代には小勢力が乱立するような状況になっていました。


伊達政宗、北上川を開発する

ここに登場するのが伊達政宗です。伊達政宗は紆余曲折ありつつも、現在の福島県の多くと、山形県南部の米沢周辺、宮城県南部を治めるようになりました。

しかし、この頃にはすでに豊臣秀吉が天下統一に王手を掛けていたため、なんやかんやあって(「なんやかんや」の内容はちゃんと本作書いてあるのでここでは割愛)、最終的に伊達家の領地は宮城県から岩手県の南部になりました。そう、福島や米沢は領地で無くなってしまったのです。このことは政宗にとって大きな痛手でした。なにせ、福島は伊達家が代々受け継いできた土地(伊達市という街がありますよね)、米沢は伊達家が長らく本拠地として土地で政宗が生まれた場所でもある、というように重要な領地だったのです。これは、家臣団を養うだけの収入源が無くなってしまった、ということと同義でした。

そこで政宗率いる仙台藩は、収入源を確保しようと北上川流域の開発に乗り出します。具体的には、1.北上川の流路を整え、2.流域で水田を開発し、3.川を船が行き来できるように整備し、4.川の河口に港を整備し、5.その港に北上川流域でとれた米を集め、6.その米を江戸に出荷して売りさばく、というものでした。そして、この時整備された港というのが石巻だったのです。つまり、石巻は江戸と直接繋がっていた港だったわけです。

現在の石巻と旧北上川

ここでポイントになるのは、石巻は江戸を相手にしていた、という点です。もちろん港の管理のために仙台藩の役人が仙台との間を行き来したりしていたものの、石巻に集められた米は仙台を経由することなく直接江戸に向かっていたわけです。

一方で少し時代が下って仙台藩の4代目藩主・綱村の時代になると、仙台藩は鹽竈神社の社殿の整備、そしてその鳥居町である塩釜の振興に力を入れます。その手法はなかなか大胆で、他の地域でもよくある税金の優遇だけに留まらず、仙台に入ってくる貨物を積んだ船は原則として塩釜港を利用するようにルールを設けて、仙台へ直接船を向かわせることを制限する、といったように、強制的に塩釜港を利用するようにしていました(貞享の特令)。このように塩竈は仙台藩から特別な保護を受けていたのです。

この塩釜に対する特別扱いは明治維新とともに廃止されますが、明治後期になって塩釜に近代的な港が整備されると、塩釜は仙台に対する外港としての役割を果たすようになります。現在は仙台港にその役目の多くを譲りましたが、仙台港はコンテナなどを扱う港として、塩釜港は小型バルク貨物を扱う港として機能を分担して今に至っています。


「歴史を知ること」は「今を知ること」でもある

さて、こうしてみると、仙石線開業当時の利用実態というものは、どうも石巻や塩釜の港の成り立ちに影響されているような気がします。つまり、石巻は江戸を向けて設けられた港であり、塩竈は逆に仙台への出入口として整備された港だということが、明治維新後も各都市の結びつきに影響していたのではないか、ということです。そして、さらに遡れば、石巻の港の成り立ちの背景には伊達政宗の領土の変遷という話が絡んでいますし、塩釜の港を仙台藩が振興したのは古来からあった鹽竈神社、そして多賀城の時代からあった千賀の浦の存在があったからであり・・・と、いった具合に、今につながる現象の理由が歴史の中にあるように見えてきます。まあ、タイトルは「伊達政宗のせい?」と書きましたが、当たらずともとおからずなのではないかなぁと思います。

そこが歴史の面白いところだと思います。大げさに言えば、過去を知ったはずなのに、今も知ることが出来たような、そんな気分になるわけです。もちろん、歴史的な流れというのは、どこかで途絶えたり、どこかで大きく様子が変わったりすることもあるわけですが、それはそれで、流れを変えようとした人たちの物語があったり、もしくは抗えない天命のような何かがあったりするわけで、結局のところ、どう転んでも歴史を紐解くのは面白いわけです。

まあ、私が日本史好きで、特に「今」との結びつきが強い近現代史が好きだからこんなことを言っているわけですが、この感覚をぜひ皆さんにも体験してほしい、ということで、今作は奈良時代から話をスタートしています。欲張りな本ですが、読み終わった頃には仙石線のことを厚みを持って理解することが出来るはずです。ぜひお楽しみください。


と、こんな調子でしばらく「あとがき」を連載でお届けしていきたいと思いますのでよろしくお願いします。なお、今作では他にも、海の波間に消えた野蒜築港とその後の近隣の港で起こった駆け引きの歴史であったり、松島が観光地になっていった歴史などにも触れつつ、沿線地域の色々な歴史を紹介しています


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?