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いい加減で生きられない人の歩き方

下記のブログの「聴く側の負担をまったく考えずに聴く人の好意に依存してくる」というところに、心当たりがありすぎる…。
一方で、それを、いちいち真面目に聞いちゃって聞き流せない自分に自己嫌悪する部分もある。

https://psychologist-neco.com/interpersonal-stress/?s=09

美輪明宏さんが、以前「友人はゴミ箱ではない」というようなことを、NHKのミニ番組で仰っていた。たまたまつけたテレビの、短い言葉が衝撃だったのは、他人をゴミ箱にしているという言葉に、心当たりがあったからだろう。
【参考】https://ameblo.jp/toyokokyoka/entry-12614858957.html (元ネタの番組は見つからず他人のブログで失礼)


今通っている就労移行支援事業所で、アサーティブコミュニケーションの授業があった。一昨年、メンタルクリニックのリワーク(復職)プログラムで初めて出会った、この技法。

コミュ力と呼ばれるものとか、コミュニケーションの上手い下手は、能力であって変えられないものだ、と思い込んでいた私にとって、技術を身につければ変えられるものという話は、大げさでなく、救いだった。

今回の授業では、過去にコミュニケーションで上手くいかなかった事例を1つ出して、アサーティブに対応してみましょう、というワークがあった。その日の朝の通所途中に、昨年あった友人とのいざこざを思い出して、何百回目の自責に駆られていた私は、思い切って、その問題を口にしてみた。クラスメートから出てきた意見は以下の通り。

・愚痴をそんなに重く受け止められちゃ困る。重く受け止めないように自分が変わるしかないのでは。
・最近どうしてる?昨年の出来事を謝った上で、会って話したいと提案する手紙を書く。
・謝った上で、愚痴を減らして欲しいと提案する手紙を書く。

以上3点の指摘は、どれも納得のいくものだった。授業の目的である、アサーティブに対応するという意味でいえば、傷つけたという事実をまず描写し(Describe:描写する)、ずっと後悔していると伝え(Explain:説明する)、会って話さないかまたは愚痴を減らして欲しいと提案し(Specify:提案する)、どうするかを相手に選んでもらう(Choose:選択する)という対応は、確かに「自分も他者も尊重する」アサーティブコミュニケーションになっている。

しかし、リフレーミングの考え方を使ってみると(物事を見る枠組みを変えて、違う視点で捉え直すこと)、愚痴を重く受け止めすぎないように自分を変える、自分は重く受け止めすぎてたんだ、と事実を捉え直すことも必要だと思う。

最初に書いたように、あれは人の好意に依存していたと思う、私はゴミ箱じゃない!と伝え、怒ってもいい。

全ての選択肢は私の中にあり、その中のどれを採用するかは自分が決められること。そして、その結果として生じたことは、自分が責任を負わなくてはならない。

今回の例で言えば、コンタクトを取った結果、仮に相手が無視してきても理解してもらえなくとも、仲が修復できたとしても、何が起ころうとも、今の自分が採れる最善策を採ったのだから、自分が勝手に抱いた「分かってもらえる、分かり合えるという相手への期待」が裏切られたと怒ったり、執着を深めてはいけないんだ。

結局、こうまでして人とコンタクトを取りたいと思う自分は、どこまでも人と人は話せば分かると信じたい人間なのかもしれない。人の善性を信じていたい生き物なのかもしれない。他人に考え過ぎだと言われても、手放しなよと言われても、それでも飽きずに話し合いたいのかも。

もちろん、こんな人間、人によっては「重い」と言われて終わるだろう。みんな、もっといい加減に生きているし、もう少しいい加減に生きる選択肢もあることを、30数年生きてきて、さすがに学んだ。同じ言語を話しているはずなのに、話が通じない場面もあると知っている。

それでも、だからといって諦めて、いい加減に生きることは性に合わないのだと思う。考えすぎ、悩みすぎ、気が付きすぎ、色んな立場にある人々のことに思いを致さずには、いられない。

いつか、この面倒くさい性質が変わる時がきたら、やっと病みやすい生き方から開放されるだろうけれど、当面はこの性質を上手く活かして、病まない程度に生きていく術を見つけるしかないだろうと思う。
「病むというのはとても孤独なこと」と、小説神様のカルテの中で、安曇さんが言っていた。就労移行支援を、病むという孤独に陥らない為の手段として、上手く活用できると、いいのだけど。

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