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この期に及んでも。 な、父と私。

父が突然、体調を崩して入院した。
あと数日ということもありえる、と。

そして、突然のことに動揺している母と姉と私の三人に、主治医はこう続けた。

「お父さま、タバコを吸おうと病院から抜け出そうとしました。どうにかしてください。」

またか。
あと数日の命かもしれないと言われている、
この期に及んで。

父はめちゃくちゃな人。
私たち家族は、こうして父の言動の後始末で何度も肩身の狭い思いをした。
人生のイベントの度に、わくわく感なんかよりも、また父が何かしでかすんじゃないかと気が重くなった。

父は自分の好きなようにしか生きられない人。
他人にコントロールされることを徹底的に嫌い、空気を読むといったようなことを、くだらないといつも馬鹿にしていた。

また、自分の力で成功することに貪欲な仕事人間だった。
私が子どものころ、父はほとんど家にはいなかった。たまに家にいても、読書や映画や書き物をして過ごす父に話しかけるタイミングが難しかった。
その一方、父の気分次第で、私たちは父のめんめんと続く話を何時間も聞かねばならなかった。

ちょっと過激な言動の父の周りには、いつもそれなりに人が集まった。
ただ、近くにいると、めちゃくちゃ短気な父の機嫌に振り回わされ、そして理不尽に傷つけられる。
集まる人がいた一方、きっと、去っていった人もたくさんいたと思う。

幼かった私には去るも留まるも選択肢などなく、父という暴走車両に牽引されている玩具カーに乗って、運命共同体のように子ども時代を過ごした。

そして子どもながらに暴走車が巻き上げる泥やら石ころから身をかわしたり、自走も駆動もしないハンドルを握りながら、振り落とされずにいる自分のバランス感覚の良さに惚れ惚れしたりしていた。

世間でいうところの「お育ち」の部分は、こんな感じで形成されているんじゃないだろうか。

また、父は、よく分からないことでキレた。
キレどころの分からない父との生活は地雷原を歩くようなものだった。
たまに会う親戚の中には、自分が無事にやり過ごせた別れ際に「私はおっちゃん好きやで。まぁ、実のお父さんってのはキツイやろけど。」と余裕のある一言で慰めてくれる者もいれば、黙って帰っていく負傷者もいた。

小学生だった私が、家族四人で夕食を囲んでいる光景にぽつりと「幸せやな」と言った瞬間、目の前のテーブルがひっくり返ったことがあった。
皿が飛んでいった。
「こんな小さなことで幸せだと思うな!!!」と父がいきりたって怒っていた。

このあと、誰かが何かを言ったのか、飛んだいった皿はどうなったのか、結局その日の晩ごはんってどうなったのか。
何も覚えていないが、黒ひげ危機一髪で人形がガシャーンと飛び出した瞬間の「あ〜あ、ここやったんか〜」という状況と重なる。
(ちなみに、黒ひげ危機一髪は人形が飛び出したら"勝ち"らしい。そのことを後に知り、物事は捉えようだとつくづく思う。)
 
こういうことが日常茶飯事だった。

いつかの夜、布団の中で姉が、「お父さんは悪魔と契約を結んだ。仕事で成功することと引き換えに、ああいう人間になった。」と言っていた。
どうやったらその発想になるんだろうと思ったが、姉の真剣な表情に、なるほど、そういうこともあるのかも知れない、とも思った。

今みたいに、いくつかの検索ワードを入力するだけで、ある程度の答えが見つかる時代ではなかったので大目にみてほしい。

しかし、知らないうちに姉は父の地雷をかなりうまく避けて歩くようになっていたと思う。
そして残念ながら、私のその機能はかなりポンコツだったんだと思う。
私はまた父に近づき過ぎたのだろう。
ある日、面と向かって、「(長女の姉が産まれた時)この子だけを愛すると決めた以上、お前(次女の私)のことは愛せない。それは自分の約束を守らないことになるから。」と言われた。
この時ばかりは母が泣きながら父に怒ったのを覚えている。

ただ、私はさほどこの言葉に傷ついてはいなかった。
なぜなら、そう言われている姉だって父に愛されているようには見えなかったから。
結局父は自分以外のことには無関心なんだと既に思っていた。


中学生になったころには、父との会話はもう殆どなかった。
父親と買い物に行ったり進学の相談をしたという友人の話を、羨ましいというより、そんな家があるのか!?シンジラレナイ!!という思いで聞いていた。

姉はずっと計画していたとおりに大学進学と同時に家を出た。
私も少し遅れて就職を機に家を出た。


そこからおよそ二十年間ほど、私たちは家族として空白だった。
全員がようやくそれぞれの役目から解放されて自由になれていたんじゃないかと思う。

私はというと、自由になってからの方が、自分に無いものや欠けているものの多さに気付き傷ついたけど、それでも自分が傷付いているということに気付けていることが心地良かった。
父のことも、母の気持ちも、姉の生活も詳しくは知らなかったが、私はそれくらいが心地良かった。

「私の家族」という言葉を使っているときの自分を白々しく思うこともあった。

全く会わない数年間や、たまに数回顔を合わせたりという年月を繰り返した。

それぞれが自分の居場所を持つようになって、少しずつ、たまの数時間を、たまの数日間を、私たちは穏やかに過ごせるようになっていった。

そして今、色々あって、私も姉も父と母の近くで暮らしている。

父は三人の孫にとても懐かれている。
昔私が入るタイミングをうかがった父の部屋では、孫たちが、父の背もたれ椅子の左右の肘掛けにそれぞれ一人ずつ、背もたれのてっぺんに一人、猿山の子猿のように父の周りにくっついている。
目の前のテレビには父の好きな映画ではなく、子どもたちの好きなアニメのお気に入りのシーンがエンドレス再生されている。


私の次女が発達障害と診断されたとき、学校に行けなくなったとき、戸惑う母をよそに、父は次女を趣味の畑仕事に連れて行き一日中一緒に過ごしてくれた。
嬉しそうに手伝う次女をたくさん褒めて「ありがとう。助かった。役にたつな〜。」と繰り返し言っていた。
長女が不登校になりかけた時も、「俺の孫ということがどれくらい素晴らしいことか分かるか?産まれてきてくれて良かった。」と、ちょっと意味の分からないことを言っていた。


冒頭に戻り、
今、頑なな父を前に、私は言葉を探して選んで、口に出せずにいた。
なぜ、込み上げてくる言葉をそのまま父ぶつけられないんだろう。

私はやはり地雷を探していた。
この期に及んで。

どう言えば父は治療を受けてくれるのか。
どう言ったら父はキレて治療はしないと言うのか。

父は本当はどう生きたいのか。
あと少しかもしれないからこそ、父はどう終わりたいと思っているのか。

これが、地雷なのか尊厳なのか、呼び方はわからない。

ただ、私の子どもたちを通して見る父の姿に、今、私は少しずつ癒されていて、この時間がもっと長く続いてほしいと願っている。

父と私、ではなく、父と孫であっても、
それはそれでいいと思う。

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