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見晴らしのおすそ分けー平常でいることー

平常でいようとし続けることが、生きる目的でもいいのではないか?と思った件

「モチベーションを高める」への違和感

ビジョンを持って、高い目標に向かって、自分を鼓舞して、、どれも正しい事だと教わった気がするし、今もそう考えられているとは思う。好奇心だけで突き進んでこれた子供の頃ならまだしも、色々見て聞いて体験して、「とはいえうまく行かないこともある」ことがインプットされた大人がそれをやるには、いつもムチを打たれて全力ダッシュを求められれているような違和感を感じてしまう。

「モチベーションレス」という逆サイドからのプレッシャー

一方、モチベーションを放棄した場合には、やる気が出ない。やりたいこと見つからないという迷子モードに入ってしまう。モチベーションを高めようというスローガンの前提には、モチベーション上げないと不安になるよという脅迫が見え隠れする。結局、モチベーションが無い=不安とモチベーションが高い=高揚の間をいったりきたりする感情に、人は振り回されてしまうんじゃないか。そんな見方をすると、モチベーションは良いことに見える一方で、中毒性の高い薬でもあるように感じられる。

モチベーションに変わるもの

モチベーションに頼らなくてよい生き方ってなんだろう?と考えた時、高揚と不安の中間にある「平常」に注目した。平常と聞いて思い出したのは、歯磨き。モチベーションも使わず、毎日淡々と続けるルーティーン(小さい子供は違うだろうけど)。いわゆる習慣。習慣の割合が多いほど、モチベーションに頼らない生き方になっていくんじゃないか。

主体的な創作習慣

では、心の平常を維持するための、歯磨きに相当する習慣って何だと考えてみると、それは創作の習慣じゃないかと思う。ブログを書くことも、音楽や絵だって創作だし、行ったことないところへ行く、初めての店で食べるだって立派な創作。
無意識の中で創作をしていても、創作していたことを忘れてしまっては勿体ない。「創作をしている」「創作をした」ことを意識下に置いて、忘れないように記録しておくのはどうだろう。ブログだったら記録が残るし、Googleカレンダーに記録することも簡単にできる。
お互いの習慣化を称賛する仲間がいると助かると思う。でも、やっぱり、自分自身が自分を称賛する仲間になるのが一番だと思う。自分が自分を応援できたら、それこそ周りに振り回されなくなるから。

平常について思うままに書いて、なんか着地した感がある。
思わずモチベーションが上がりそうになったけど、いかんいかん。
それは目的じゃない。淡々と、今日の創作を終わります。


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