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人が生きる意味とは

 『何故人は生きるのか』、という太古の昔から数恒河沙回擦られて来た命題がある。それだけ擦られているのに未だに『これが正解だ!』と全人類が揃って納得できるような「答え」がないのは何故だろうか。

 それさえあれば......人生という長い道のりの中で、道を見失わずに済む方位磁針のようなものがあれば、人は悩まず生きていけるだろうに。

 世界には様々な宗教がある。最古の歴史を持つヒンドゥー教から世界一の信者数を誇るキリスト教やオウム真理教のような新興宗教まで多岐にわたる。しかし、あらゆる宗教に共通して存在していることは『何故人は生きるのか』という問いに対する答えが用意されていることだと勝手に思っている。

 人は独りで生きていくにはあまりに不安だから、『神』というものを信仰してそれを信じることで自分の生きる意味を見出そうとしている。(と私は思っている。)

 日本は国民のほとんどが特定の宗教を信仰しない無宗教大国であり、生憎、私も無宗教だからこそこんな適当なことを言うことが出来るし、生きるのに苦労しているのだが。

 さて、宗教に造詣の浅い私が何を言おうと各方面から袋叩きにあうだけだからこれ以上宗教の話は避けよう。

 問題は『何故人は生きるのか』、要は『人は生きる必要があるのか』のお話である。

 「必要」ってなんだ。「必要」かどうかを定めるのは一体誰か。それは勿論当人以外の他者だ。でもそれっておかしくないか?

 ここから見えて来ることは、『人は他者によって必要とみなされ生きている』ということだろう。そしてこれは逆もありうる。要はお互いに必要とする共依存の関係、もっと嫌な言い方をすると共犯関係にあると言える。

 本当は人間がこの世に存在している必要は無いのに、貴方も私も存在している必要は無いのに、ひたすらひたすらにごまかし続ける。『生きる必要はある』と他人から言われ、自分でも自分に言い聞かせ、辛うじて生きている。

 でも、これは間違ったことなのだろうか。

 私は間違ってないと言いたい、というか間違ってないと言うしかない。生きていたいから。

 倫理の授業なんかクソくらえだし、自分が死んだあと自分の子孫がどうなろうと知っちゃこっちゃない。(そもそも自分に子を作る気はないが。)
 共犯結構、無意味上等。生きたいから生きる、そこに他者や世界の許可なんて必要ない。

 生きるのサイコー!生きていればきっと楽しいことがある。明日のご飯だとか、気に入らない有名人の不幸だとか世の中には楽しいことがいくらでもある。

 そういった『生きる意味』をどんどん創出していれば死ぬことは無いでしょう。『生きる必要』は無いけれど、『死ぬ必要』も無いからね。



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