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noteで書いていく上で、覚えておきたいこと。

このnoteはあくまでnoteの書き手(とくにまだはじめて日が浅い人)のために書いたものであり、特定のだれかを批判する意図はありません。

好きなクリエイターやメディアが炎上する機会をたびたび目にする。
建設的な批判はいい。ただし、その他大勢(※)の見苦しいコメントでタイムラインがあふれかえることは苦痛でしかない。そうなると本来批判されるべきこと、問題、改善策、当事者、それらの影がいつの間にかどこか遠くへ流れていってしまい、ただのエンタメとして雑に消費されていってしまう。思慮のないコメントを投稿するその他大勢の興味関心はあおることそれ自体だから、飽きればまた次の炎上案件を探すだろう。SNSは彼らのストレス発散のための場所に成り下がったのだろうかとも思う。

※本質を突いた批判とは到底思えない、「気持ち悪い」「消えろ」など人格否定的なあおり方をする人、不確かな事実を断定的に語る人、見ず知らずの他人にたいして命令形の言葉をつかう人のこと。端的に言えば、「一顧の価値のない言葉を発する人」のことです。

とはいえ。
ぼくらはものを書くことを諦めることはしないしそれにたいして絶望もしない。普通にしていれば、書いて伝える、読んでもらう、それは至高の喜びであり、生きる上で必要な自己表現だからだ。
先日のcakesの件はじめ、たびたび目にする炎上などとは規模はちがうけれど、ぼくらが日々ここで創作活動をしていく上でもそのようなリスクはゼロではない。炎上に至らないまでも、他人に誤解を与えてしまう、コミュニケーションの齟齬が生まれるなどの可能性は捨てきれない。
だからといって、上に書いたようなことを恐れて萎縮する必要もない。ないけれど、その可能性をすこしでも減らす術を知っておくことは決して無駄にはならない。
そのために、注意するべきこと。何度か書いたけれど、それについて今日は書こうと思う。

だれが読むかわからない

まず大事なことは、これを自覚することだ。そうすれば、おのずと書く内容や書き方が見えてくる。少々尖った意見や突っ込んだことを書く、つよい言葉をつかう。そのような時には注釈を入れる(この記事にも注釈がはいっている。「その他大勢」と自分が規定されたと思って気分を害する人や、あおり系の記事だと誤解する人がいるかもしれないから)のもひとつのポイントだ。これによって、届けたい先に届く(≒不必要に読まれなくなる)可能性が高まる。
あとは、言葉を尽くすこと。意図している場合は別として、誤解を招きかねない表現はないか、もうすこし丸くできる言葉はないか。書き終えたら、何度でも見直そう。ほとんどの場合、修正すべき箇所があるはずだから。
だれが読むかわからない。それは、覚えておいた方がいい。

納得してから投稿する

言葉を尽くすこと以外にも、内容を見直すことも同じだけ大切だ。言葉を尽くした、内容を精査した。何度も見直して、微修正をくりかえした。たくさんの手を入れたなら、その記事には愛着が湧くはずだ。仮に批判されたとして、斜め上からのコメントが飛んできたとして。記事の内容にほんとうに納得できていれば、そのときは冷静に、落ち着いて返せる。たくさん推敲したのだから、批判であれば真摯に受け止めることができるし、こころないリアクションは放置するつよさを持つことができる。

あらゆる可能性を想定しておく

一生懸命書きました、たくさんの人に読んでほしいです。そう思うのは自然なことだけれど、毎日たくさんの記事が投稿されるnote、多くの人の目に触れることは簡単ではない。とくに最初の頃は、リアクションの少なさにがっかりすることも多いかもしれない。
大切なのは、可能性を想定しておくことだ。
共感を得られる/得られない可能性、批判を受ける/受けない可能性、関心を生む/生まない可能性。
それらをしっかり想定できていれば焦ることもないし、その結果を冷静に受け止めることができる。無理に共感や関心を得ようとして思ってもいないこと(≒嘘)や過激なことを書きたくもならないし、不必要なつよい言葉をつかいたくなることもない。
可能性を想定しておけば、何があってもだいたいのことは冷静に受け止められるようになる。

心地いいと思える記事を書く人を見つける

この人の記事は、読んでいてとても心地がいい。
そう思える人と出会えたら、それは直ちに財産になる。率先してその人の作風や雰囲気を真似してみよう。言葉の選び方、空間や行間のとり方、その一つひとつに心地よさのエッセンスが散りばめられているはずだから。
たくさんの人の記事を読み比べると、文章のなかに書き手の色が見えるようになる。不思議なくらい、ひとつとして同じ文章はない。人はそれぞれ価値観も性格もちがうけれど、それは文章にも言えることだ。

いい意味で諦める

ここにはいろんな人がいる。想像もできない背景や価値観を持っている人がいる。経済状況やこころの温度も人によってちがう。たまたまその時余裕がある人もいればそうでない人もいる。だから、言いたいことを意図したとおりに100%伝えることは到底不可能だと思っていい。
ただ、これまで述べてきたとおり、自分の書いたものが人を傷つける、または問題になる、その可能性は努力で極限まで減らせる。こころを込めて書きました、たくさん読み返しました。修正すべきは修正しました。そうして読まれる準備ができたなら、あとは堂々と投稿すればいい。
どんなに気をつけていても、事故があるかもしれない。とばっちりを受けることがあるかもしれない。でももうそれは運だから、いい意味で諦めよう。心地よく受け取ってもらう努力を最大限したと思えたなら、それでいい。見ている人は見ているから、そのまま誠実でいればいい。

まとめ

・だれが読むかわからないから、十分に言葉を尽くす
・推敲を丁寧に行えば、多少のことには動じないでいられる
・いろんな可能性を想定しておけば、自然体でいられる
・心地いい文章を書く人の言葉のつかい方などを真似てみる
・読まれる準備ができたと思えたなら、堂々と投稿する

おわりに

出だしで随分とつよい言葉をつかいました。noteをはじめてそろそろ2年、こんなふうに書いたのはおそらくはじめてです。

炎上、ということについて、多くの方が言葉にして見解を述べてくださっているのを拝見しています。いずれもとても勉強になりました。参考になりました。書いてくださった方々の言語化力に、驚くとともに尊敬の気持ちを抱きました。そのうえで諸々の問題に対してぼくが言えることなど何もありません。ありませんが、もうすこし規模のちいさな世界であれば言えることがあるのではないかと、今回この記事を書くことにしました。規模の大小は本来関係のないことですが、noteに文章を投稿している方々の圧倒的大多数の文章での活動規模は、cakesやその他メディアのそれよりちいさなもの。炎上などとはほぼ縁のない世界の話だと思うのです。そのサイズ感に合わせて書いたつもりです。
心構えとして、書く上でのマナーとして。知っておいた方がいいことがあります。それは(対面でも同じですが)「相手に敬意をもって接すること」です。画面の向こうにいる人の表情を、想像する。大きく言えばそれ一択。想像力が、何よりも大切なのだと思うのです。
シンプルなことほど難しい、それも事実だと思いますが、裏を返せばそれさえできていれば有意義な創作活動、執筆活動ができるということでもあると思います。すこし仰々しく書きすぎたかもしれません。ほんとうはもっと、気軽に愉しむものなのかもしれません。ぼくも、書いていくことで、まわりの人たちとコミュニケーションをとっていく上で、学んだことがたくさんあります。それらをここで形にしておくことで、おこがましいかもしれませんが、だれかの頭の隅っこにのこったらいい。そう思って書きました。

noteにいるすべての人が、これからも創作を愉しめますように。
これからも永く、書きつづけることができますように。
あとがきが長くなるのはぼくの悪いところです。お付き合いいただき、ありがとうございました。

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