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「家」って何だろう。


「いつも妹がお世話に...」そう言いかけたところで、これはちょっとおかしいのかもしれないと思い踏みとどまった。だって妹はすでに「向こうの家の人間」なのだから。

「家」って何だろうと思うことがある。
これは先日妹の嫁ぎ先のご両親から結婚祝いをいただき、そのお礼であちらのお母さんと電話をしたときのこと。
「嫁ぎ先」って言い方もなぁ...自分で書いておいてだけれど、何だかな、っていう感じ。
いったい何なのだろう、この「線引き」は。見えないけれど、厳然とそこにあるもの。

ふだんはまったく気にしないことが、ふとしたときにつよく意識されることがある。家の問題ってその最たるものかもしれないな。家の問題というか、アイデンティティにかかわることの話なんだろうな、これは。
幸いにしてぼくは奥さんの家と家族が好きだし、妹のことをこうして例に出しはしたけれど、妹の家がそんなに厳格なというか気難しいというか、「家」という意識や概念をむき出しにするようなところでもない(と思う)。
それでも、違和感があった。お祝いをいただいたのにも関わらず失礼を承知で書くけれど、あちらのお母さんが「ぼくの妹」を「うちの娘」として認識していることが、何だかすこし気に入らなかった。事実なのに、腑に落ちなかった。あちらのお母さんには何の悪気も落ち度もない。ひたすらに申し訳ない。それでも、当たりまえのことなのに、その違和感が拭えなかった。重ねて言う。考えすぎで勘繰りすぎで、申し訳ない。お母さんは、悪くない。

「いつも○○くんと△△ちゃんにも良くしてもらって...」と、あちらのお母さんが続ける。ぼくからしたら当然、可愛すぎるふたりの甥っこと姪っこ。でも、彼らふたりもやっぱり「向こうの家の人間」なんだ。気持ちの問題ではなくて、これはシンプルな事実として。彼らは引かれた「線」の、向こう側にいる。
決して妹の家が嫌いなわけではない。妹の旦那はとても優しくてのんびりしていて、うちの母にもよくしてくれている(妹が怖いというのもきっとある)。よくわからないスマホの設定を教えてくれたり、病院の送迎をしてくれたり。ふたりのパワーバランスはさておき、いい義弟だと思っているし、いい夫婦だと思っている。

ときには、「家」という概念が本来いちばん尊重されるべき「本人たちの気持ち」をも壊してしまうことさえある。そんなケースを間近で見たこともある。夫婦お互いは選べても、その家族は選べない。話が飛ぶからこれはまた別の機会に書きたいと思うけれど、こんなちょっとしたことから「家」という概念がふと頭をもたげたよという、これはそんな、ちょっと自意識過剰で妹を溺愛している大人になれない兄(40)の話。

そしていずれにせよ妹があちらのご両親によくしてもらっているのはたしかなのだから、やっぱり兄としてひと言それにたいしての感謝の言葉は添えるべきだったと反省している。
こんなことは自分の内に留めておけばいいのになあ。
だから、お祝いのお返しとしてあちらのご両親にお渡しした千疋屋のフルーツゼリー詰め合わせは妹一家があちらの実家に帰ったとき(ちかくに住んでいる)に食べられるようにという意図で選んだということも、ついでに書いておく。
べつに、何のオチにもなっていないけれど。

「家」って何だろう。
「家族」って、何なのだろう。

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