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手書きでポエムを書いてみる。

まずは、手書きのポエムを読んでくれてありがとう。
これは、以前投稿したポエムを手書きに直したもの。「noteエアお花見」に参加しようと、撮りためていた桜の写真とともに言葉を添えたものだ。

今日はちょっと実験的な意味合いで。
以前嶋津さんが、このようなツイートをされていた。

「ポエムの価値を上げる」ということについて、これをきっかけに考えてみた。
ポエムについて、読む、書く、知る、がまずもって圧倒的に足りていないことは自覚している。けれど、それはおいおいとさせてもらって。今日は、現時点でのぼくの考えたことを。短いので、さらりとお付き合いいただければ幸いです。

価値は自分で「上げる」ものなんじゃなくて、みんなに評価されて「上げてもらう」ものなんだよ、っていうご指摘があるかもしれません。それはごもっとも。その上で、今回はあくまで考えの経過を記しておきたいと思い書いていることなので、ご容赦くださいね。


手書きの唯一性

「手書きnoteを書こう」という企画を、以前開催したことがある。

この経験で実感したことがある。「手で書く」ということの一番の魅力は、何と言ってもその人のオリジナリティ、唯一性がもっとも現れる手段であるということだ。仮に同じ文章を書いたって、けっして同じ空気にはならない。それぞれの、オリジナルのフォントが武器になる。

たとえば、同じポエムを複数の人が手書きで書いてみる。
これはただ文字をなぞるだけではなくて、ポエムの内容をそれぞれがしっかり受けて、その上で表現するということ。当然、完成した一つひとつには書き手の個性が現れる。
もうひとつ。
ひとりで色のちがうポエムを複数手書きで書いてみる。
悲哀に満ちたポエムと、歓びにあふれたポエム。それらを文字に起こせば、文字のまとう空気感はきっと異なるはずだ。

手書きでポエムを書いてみる。ただのテキストに、オリジナルの色が加わる。字体のみならず、文字の大きさ、行間の持たせ方。拡げて考えれば、何に書くのか、何で書くのか。そのすべてが、作品に唯一性を持たせうることになるのではないか、ということ。


それは、ポエムの特徴に合致する

これは個人的な解釈として。
ポエムは、ビジュアルを楽しむことができる余地のあるジャンルの創作だと思っている。小説が、エッセイが。手書きで書かれていても、ねぇ。(アリかもしれないけれど)ポエムと同等にそれを楽しむことができるのか。そう考えると、それらと比較してポエムが短いからという理由もあると思うけれど、ポエムのビジュアル面からの価値の上げ方というのは一つ、大きな可能性をもっているのではないかと思えてくる。
手書きで書くことによって、「ポエムのビジュアルの概念が拡張される」。まるで一枚の絵のように、アートの要素をまとう(すでにアートなんだけど、美術的な意味合いが増すという意味で)。
あまり拡げ過ぎると収拾がつかなくなるけれど、こんなことも言えるのではないかと思う。


おわりに

冒頭の手書きポエム、以前読んでくれた方には再読させちゃってごめんなさい。ただ、以前掲載したものがすこしでも印象にのこってくれていたら、それが今回また違った感覚で味わってもらえる可能性があるかもっていうこともちょっと考えてのことでした。ポエムを繰り返し読みながら、感情をこめて書きました。もし思うことがあったら、教えてください。

一つのポエムをみんなで手書きするって、何だかジャズみたいだなぁ。
○○さんの手書きポエムはしっとりしててムーディだよね、みたいなね、そんな感想を言い合えたりする可能性があるのかな。

まだまだ考えてみます。書いてみます。
幸い(?)仕事が減って、つかえる時間が増えてるんですよ。笑

ここまで書いたこと、「手書き」を「声」に置き換えても通じると思うし、究極的には「芸術」とか「創作」とかいうひとくくりの中で、すべての創作物は同じような道筋をたどるのかもしれないですよね。

今日もさいごまでお付き合いありがとうございました。
お昼ごはん、何にしようかなぁ...。

それではみなさま、穏やかな午後を。





今日書いたことは、嶋津さん主催のこちらのサークルおよび有料マガジン「シルキーな日々」で語られたことをもとにしています。





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