平等と不平等
「格差」という概念がありますが、これも色々な「種類」を持つ現象の一つです。
代表的な格差の種類としては収入の格差や権力の格差などが挙げられます。世界にはお金持ちもいれば、権力者もいます。そして、貧困で苦しんでいる人もいれば、地位の低い立場に追いやられている人もいます。これは不平等です。
では、どのようにすれば不平等を解消し、「真に」平等な世界を実現できるのでしょうか?
まず、真に平等な世界を実現するためにはすべての人の容姿が完全に同一である必要があります。容姿に格差があれば、それは様々な不平等の原因にもなるからです。また、すべての人が同じ遺伝子、同じ身体、同じ能力、同じ場所、同じ時間、同じ行為のタイミングを持ちつつ存在する必要があります。これらのどれか一つにでもわずかな「差異」が紛れ込めば、途端に平等の形は崩れてしまいます。
つまり、真に平等な世界の実現のためには少なくとも次の三つの条件を満たす必要があります。
世界の存在者が完全に一人であること
他者が完全に存在しないこと
多様性が存在せず、すべてが同一であること
一つずつ説明します。
まず、世界に存在する者が完全に一人でなければ、「真の」平等は成立しません。なぜなら、そこにある一つの存在者とは「別個の」他者が少しでも存在していれば、その他者と存在者との間に差異が生まれ、平等が崩れるからです。
また、他者が少しでも存在すれば、差異が生まれてしまうのですから、その世界には一つも自分以外のものが存在していてはならないことになります。
最後に、何かの多様性が存在すれば、必ず差異が生まれ、不平等化するので、真の平等のためには多様性も存在してはならないと言えます。
さて、では、どのようにすれば以上のような真の平等の状況は達成可能でしょうか?
まず、一人の「生き残るべき人」を選定する必要があります。また、この時には世界には一人しか存在が許されないため、他の存在は一つ残らず抹消する必要があります。次に、選定を受けた一人の人以外のすべての他者を抹消します。このことにより、他者の存在とそれに付随する差異を抹消し、平等化できます。最後に、例えば、地球上には多くの種類の生命や人々がいますから、これは不平等であるということになってしまい、結果として、選定を受けた一人の人以外の他のすべての多様な存在を抹消する必要性が「真の」平等化のためには生じます。
では次に、以上のような完全な平等化の手続きに基づく行為の倫理的な正統性を検証してみます。
まず、現代の倫理は極めて強い生命主義を基軸に持っており、生きること及び生まれることは善きこととされています。ゆえに、生命の抹消は現実的にそれらの善き「もの」及び「こと」の完全な「殺戮」及び「抹消」を意味するため、倫理に著しく反します。つまり、少なくとも完全に徹底された平等主義は倫理と対立するため、このタイプの平等主義は倫理を排斥する必要性を持つことになります。以上のことから、「完全な真の平等は悪徳である」ということになります。
では、「完全なタイプの不平等」の場合はどうでしょう? 例えば不平等によってもたらされる熾烈な貧困は多くの人々に生命の危機をもたらすため、生命主義に反し、つまりこれも悪徳です。よって、このタイプの不平等も悪徳であると言えます。
これらの帰結から、徹底された平等及び徹底された不平等はいずれも悪徳であると言えます。よって、適度な平等と適度な不平等が善徳となります。
つまり世界には、平等な方がいい場合と不平等な方がいい場合の両方がありえます。
ここから問題となるのはどのような平等が許容可能で、どのような不平等が許容可能であるか? ということです。これはケースバイケースです。常に非常に難しい問題となるでしょう。しかし、少なくとも言えるのは、何もかもを完全に平等化することも、何もかもを完全に不平等化することもそれらのどちらもが誤りであるということです。それらの過度な平等主義及び過度な不平等主義はいずれも、倫理的においても正統な意味での「愛の」平等主義には対立してしまいます。
結論としては、人類の繁栄のためには、あらゆる平等とあらゆる不平等をどちらも適宜に尊重しつつ、上手く社会の公益を調整する柔軟な姿勢が重要となるでしょう。
すべての多様なそれぞれの人々が大切です。要は「みんなちがって、みんないい」ということになります。
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