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「死刑」を越えて……

いわゆる「死刑制度」については様々な論点があって、とても難しい議題ですね。私の立場は死刑制度に反対するものなのですが、この記事ではそれについてなるべく簡潔に示せるように頑張ってみようと思います。

死刑制度を存置する理由として一般的なものに対する私の反論を逐次に述べてみます。


「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」という指摘について。

これについては、私は次のように反論します。「何かの現象について命をもって償わせるという言葉の意味を死刑囚への殺戮のみに限定することはできない。同じ命をもっての償い方でも、別様の方法があるはずである。例えば、最も理想的なのは犯罪者が心を入れ替えて反省し、善良に改心することであり、もっと言えば、その改心の努力の果てに自分の罪をより直接的に償うことである。それと言うのも、殺人犯の場合で言えば、自分が殺してしまった人を――あるいは医学的にさえ――復活させ、さらにその人の幸福に積極的に寄与するということそのものであり、この償い方はもしも可能であれば、犯罪者を単純に痛めつけることよりもさらに公益に適うといわざるをえないだろう。つまり犯罪者を殺す指針よりも、犯罪者をも生かす指針の方が理想的には公益に適う。ゆえに仮に死刑が制度的に要請されるとしても、それは苦肉の策であり、私たちは常に死刑制度の廃止の可能性を追い求めるべきである」というふうな感じです。

「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」という指摘について。

これについては、私は次のように反論します。「被害者やその家族の心の望みは殺戮ではなく、本質的にはすべての人の幸福に他ならない。ゆえにたとえ相手が死刑囚である場合でも、その人を殺したいとか、積極的に暴力を働きたいとか、その類の執拗な情念はその当該の主体の心においてやむをえずに生じているにすぎないものであり、その人の本心はそもそも加害による被害がない状態であり、あるいは相殺されている状態である。つまり、ここで被害者らの感情を根拠にして、犯罪者への過酷な刑罰としての死刑を要請することは、被害者の本意に反しており、むしろ被害者の感情を恨みで満たしてしまう恐れさえある。結論としては、キリスト教に述べられるごとく、敵をも許すべきではあり、ここでもやはり死刑制度は積極的に存立させるべきものとは言えない」というふうな感じです。

「死刑を廃止すれば、凶悪な犯罪が増える」という指摘について。

これについては、私は次のように反論します。「基本としてすべての人はその本性として善良であることは、デカルトや孟子のような古今東西の天才たちによって確認されているとおりである。ゆえに性善説を正統なものとして見ることはひとまず妥当であろう。つまり、基本としてすべての人はすべてのものの幸福を切に願っているものと想定される。それが阻まれたり、遅延したりすることで、二次的な障害が発生し、いわゆる「犯罪」が生起しているものと捉えられる。つまり、根本的にはどんな人にも良心および良識が認められる。この時、少なくとも多くの人はその本心では、人を殺したいとは思わないはずであり、表面的には「殺したい」という欲望に駆られている場合でも、それは本心とは言えず、そう言えるとしても、何らかデカルトらへの正統な反駁がなくてはならないが、現行では彼らの理論を凌駕することは著しく困難である。また、死刑とは対象を抹消することを意図しており、本性が善であるものを積極的に抹消することは悪である。ここでも、死刑は消極的にのみ許容される可能性を持つのみで、積極的に存立させるべきシステムとは言い難いことになる。つまり、死刑制度が本性が善である生命の抹消である以上は、その行使自体が直接的及び間接的に社会の凶悪性を増進しかねない。また、仮に人間の本性が一般に悪であるとすれば、人間は滅ぶべきであることになり、これは殺人罪などを犯すことが正当化されてしまう契機になりえるため、そもそもの人命は極めて重要であり、保護されるべきであるという基礎的な法理に著しく反してしまう」というふうな感じです。

「凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある」という指摘について。

これについては、私は次のように反論します。「性善説が正統であるのだから、本性的にはすべての犯罪者は殺戮を好んでいるわけではないと言える。この時、仮にその当該の犯罪者が凶悪な犯罪を繰り返すとすれば、そこには犯罪者自身の生命以外の原因があるはずであり、それは生命それ自体ではない。つまり、犯罪行為の原因ではないところの犯罪者の生命を破壊することは根本的な解決にならず、むしろ真の原因を特定できるように努める方が犯罪者を殺すことよりも社会の治安維持において有益であろう。ゆえに不幸にも凶悪な犯罪を犯してしまった犯罪者と共に協力して真の犯罪の原因を探求することで、より犯罪の少ない世の中を目指す方が、死刑制度によって真実を闇に葬ることよりも、社会的により有益である」というふうな感じです。


以上、四つの指摘に対する私の反論を述べてみたのですが……どうしても文章が硬くなってしまいますね。かなりかみ砕いて説明してはいるつもりなのですが、やはりちょっと難しめになってしまっているようにも思います。人に伝わる文章を書くというのは難しいですね。そこには色々の行き違いが生じます。そしてそうした些細な行き違いが積み重なって「魔が差す」ということが時にあるのだと思うんです。みんなできる限りは善く生きたいと願っているように思います。『古事記』などにおける素戔嗚すさのおの悪行もある種の慈悲心に根差しているようにも思いますね。

いつの日か、加害者も被害者もあらゆる災禍から解放されて、みんなが共に笑い合えるような幸せな日が来るといいですね。祈ります。



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