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「生の」感覚について

何かを「経験」するというのは、本当のところではどういう意味なのでしょうか? 例えば、統合失調症の経験を私たちがする時、そこでは具体的に何が行われているのかについては非常に込み入った議論が必要な点であるように思われるのです。そして、これは統合失調症に限った問題ではなくて、おそらく「経験」それ自体の性質に関わってくる重大な問題であるように思います。私たちは今も何かを「経験」して生きているように思われますが、それが一体具体的に何をすることになるのか? あるいはそうした問いへの答えを証明したり、確かめたりする術はあるのか? などと様々な問題が沸き上がってきます。では、ここで少し、先人の知恵を借りてみることにします。

Erfahrung ist ohne Zweifel das erste Produkt, welches unser Verstand hervorbringt, indem er den rohen Stoff sinnlicher Empfindungen bearbeitet.
(Immanuel Kant, "Kritik der reinen vernunft" より引用)

以上は、カントの『純粋理性批判』からの引用です。以下は上記の引用文の私訳です。

経験とは疑いなく私たちの思慮が、官能的な感覚である生の物質を加工することによって生み出す最初の産物である。

以上のように、カントは「経験」というものは、「官能」つまりは感覚器官を通してもたらされている「感覚」であるところの「生の」「物質」を「思慮」が加工することによって生み出す「最初の」産物であると考えていたことが分かります。

私がここで特に注目したいのは、「生の」(rohen)という観念です。生のものとはどのようなものなのでしょうか? この生という観念は「加工されていないありのままの状態」を指しているというふうに一般的には考えられます。要は、「自然な」状態のことなのかもしれません。ここには、何らかの加工を加えられた人工のものとあるがままの自然としての生のものとの対立が生じています。そして、経験はこの自然を私たちの思慮によって加工することで生じてくるものである……だとすればこの時、この「思慮」と呼ばれる作用は具体的に自然に対してどのような加工を施しているのかということがとても気になります。

例えば、もしも統合失調症というものが私たちの思慮の作用における障害の一種(思考障害)であるとするのなら、そもそもこの「思慮とは何か?」という問いは重大な意味を持っているように思えます。つまり、思慮が何であるのかによって、思慮の作用の「障害」というものが何であるのかも決まってくるだろうからです。

以上のことから、カントの為した経験についての上記の定義は、統合失調症の思考障害とは具体的に、あるいは原理的に何であるのかを知るためにとても重要な問題であるということになるように思います。

ただ、実のところ、私には、何が「生の」ものであり、自然であるのかも分かりませんし、逆に何が「加工」されたものであり、人工であるのかも分かっていません。この問題は、統合失調症とは何か? という問いを提起する上でも極めて重要であるにもかかわらず、とても難しい問題なのもあって、現時点では確かなことはほとんど言えないように思えます。

私たちはよく「経験は大切」とか「経験を積むべき」とか言いますが、そもそも「経験とは何か?」という土台のところからして人類にはよく分かっていないのではないかと思います。カントは『純粋理性批判』においてこうした感覚や思慮の働きについて詳説しており、この問題について何らかのヒントをもたらしてくれるかもしれません。

このようにカントの著作のような遥か昔に書かれた古典が、現代の統合失調症についての理論に貢献できるような点が見受けられるのは本当にすごいことだな、と思います。ある意味、古典には現代性があると言えるのかもしれません。古い本なのに、その中身はとても新鮮です。そして、そこに描かれている情報の数々は本当に様々の示唆に富んでおり、こういう本は「名著」なのだろうな、と私は心から思います。おそらく、私の「思慮」が「生の物質」を「加工」することで、こうした「最初の産物」としての「経験」が生じてくるのでしょう。この辺りは、認知心理学の知見などを援用しても面白い成果が得られそうだな、と感じます。認知心理学では認知というものの仕組みについて奥深い理論が立てられていて、この問題について考察する際にもとても参考になりそうな気配があります。

画像情報を比較的そのまま分析する 低次・初期視覚 と物体や情景の意味を分析する 高次視覚 との間をつなぐものとして, ミッドレベル・ビジョン が提唱されている。(道又爾, 北崎充晃ら, 『認知心理学――知のアーキテクチャを探る』, 有斐閣アルマ, 2009, p.53 より引用)

上記の引用文において提唱されているビジョンによれば、まず低次の感覚があり、徐々に高次の感覚の処理へとつながっていく……そういう連続した構造体の存在をイメージすることができると思います。低次のものから徐々に高次のものへと接続されていく様子です。ある種のカスケード反応みたいなものであるようにも感じられます。

こうした図式を援用する場合、カントの提唱する「経験」(Erfahrung)の概念は、最も低次の段階における感覚の処理を示していることになるのかもしれません。そのように考えるのなら、まず最初にある最も低次の感覚こそが「経験」と呼ばれるということになってきます。そして、その経験ですらも、私たちの認識の構造によって予め「加工」(bearbeitet)することによって生み出された最初の産物なのだとすれば、それよりもさらに以前の産物こそが、未加工のあるがままの「自然」であるということになります。つまり、これが、「生の」ものですね。

もしも仮に、こうした「生の」ものから高次の認知的な処理に至るまでの過程が完全に切れ目なく滑らかに連続しているとすれば、そこに「切れ目」を想定しづらくなってきます。そして、こうした切れ目と言うか、「区画」のようなものがなければ、それらを厳密に区別することはできないことになります(連続主義)。この場合、程度問題では判断の目安を付けられるものの、厳密には加工された経験と生の官能的な感覚とは区別不能、つまり一体であるという結論が得られます。同じものなのにそれらは見方によって様々な見え方をするわけです。また、これは数学上の「多様体」の概念にもかなり近接している現象であるように思えます。ご参考ください。

以上の論理からは、どうも「感覚」と「思慮」を厳密に区別することは難しいらしいということが見えてきます。だとすれば、統合失調症は「思考障害」(妄想)であるとともに「感覚障害」(幻覚)でもあるのだ……というふうに言えることになってきます。幻覚と妄想は表裏一体の作用であるというふうに今回の論旨では見て取ることができます。

何やら感覚と思考の間には境界はないのだ……というような結論が得られたのですが、これはどうなのでしょうね(笑) とても面白い論点だなと思います。より正確に言えば、大まかに観察する時(マクロ)にはある区別が、細かく観察する時(ミクロ)には溶け合ってしまう……ということでもあります。「神は細部に宿る」という言葉もあるように、細部を観察していくことは、全てが一体になっていく過程でもあるようです。逆に、「区別」というのはある種の「大雑把さ」のことであるということになってくるのかもしれません。世の中には様々な区別がありますが、そうした大らかなものを「ロゴス」と呼ぶときには、すべてが溶け合っていく細やかな感性のことを「エロス」と呼ぶことができるかもしれません(この点については、詳しくはユングの分析心理学などを参照してみてください)。

おそらくエロスとロゴスはどちらも重要なものなのですが、これらの双方の性質をある種の両性具有的に兼備するのは難しいことなのかもしれません。しかし、少なくともそうした理想的な状況を志向すること自体はとても大切なことであるようにも思えます。

こうしたエロスとロゴスの観念を統合失調症の障害の様式に当てはめて考えてみると、様々なものが見えてくるかもしれません。例えば、エロス優位的な感覚野においては、全てが一つになってきますので、大まかな区別の原理としてのロゴスの機能が損失します。この場合、連合弛緩や言葉のサラダなどの現象が生じるリスクが出てくると考えられます。一方、ロゴスが優位な場合、全てがバラバラになってきますので、行動の統合性が破綻し、支離滅裂な言動を呈するようになるものと予期できます。その意味では、統合失調症というのは、強力過ぎるエロスやロゴスによって心のバランスが失調することによって呈される症状であると考えられる余地があるのかもしれません。そしてこの説がある程度でも正しければ、エロスとロゴスの間のバランスを取ることで、統合失調症の病態に「均衡」をもたらし、上手くいけば「治癒」まで持っていくことのできる可能性さえ出てくるように思われます。現代で言えば、こうした領域を司る可能性が高いのは、オープンダイアローグの理論かもしれません。この理論では、「愛」が重視されているようです。簡潔に言えば、「愛こそが統合失調症を治すのだ」……そういう傾向の主張です。そして、これは私の目から見ても、どうも正しい主張であるように思います。みなさんの意見もお聞きしてみたいです。よろしければ、この記事の感想とかよろしくお願いします。

すべての統合失調症の人達が健やかに幸せになれますように。祈ります。

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