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「言語」の「使用」における「愛」について

色々な記事を見ていると、様々な発見がある。それらはしばしばとても面白いものであるが、さらにコンピュータにおける「メモリ」の即時性について考える。メモリの演算の発想に直接に影響を与えるアイデアの基準、そのシステム、様々な想いがある。これらを使いこなすことは難しい。

しかしそれだけのさまざまな対話の意味しているものが会話の意味それ自体を特定することは常に難しい。それはとてもハイコンテクストだからで、ハイコンテクストとは常に何か文脈の過剰である。文脈の動きにあるもの、それを同定すること、これこそが難しいことである。色々の文章を書き、その知識を遂行し、そして知行合一の下で行動すること。これこそが難しいことなのである。そして「声」と「文章」、パロール、エクリチュール。そうしたものはとても面白いし、とても難しくもなる。なぜならとても複雑だからである。そのシステムを同定することはまずもって難しい。

それはプログラムに似ている。故意に分かりづらくしているわけではないが、それでも難しいということ。そういうことから、多量の文章を読んでくれる人たちには感謝の念を持つことが合理的である。なぜなら文章の意味は常に難しいものであり、読む「労力」がそれなりにかかるものだからである。それを「わざわざ読んでくれる」ということほど嬉しいことはないのだから、常に「ありがとう」と現に言うことに価値がある。そういうものである。

英語と日本語の差異について考える、ちょうどその時には、どの「間」に「私」はあるのだろうか? その身体的な言語と精神的な言語をどう特定するのだろうか? 多種多様な疑問があるが、それらはすべて研究価値のあることでもある。なぜならいわゆる「メンタル」の同じものは、一つとして「ない」からであり、目立ってそれを為さないようなことこそが、とどのつまり「これ」なのである。これこそが面白い基準を取る発想である。発想のために幾多の「理由」を生み出すように見えるすべての理由という理由……それらが、ここから根元を持っている「誤字」から生まれ、それはとてもクリエイティブなことでもある。

そうした演算の掟、法律、規則……。そうしたものもがとても面白い機序を持っている。そのシステムはどこから由来しているのだろうか? それを特定することは難しいし、分析することも難しい。総合することも難しい。これはカント的な意味においてである。カントの『純粋理性批判』の中においていわゆるカテゴリー論が見事な手腕で展開されているが、それらの知見はとても興味深いものだし、何より難しい。正確に解読することも困難である。なぜなら『純粋理性批判』とはそもそも、純粋な理性に対する批判であるのだし、そうした批判的検討のもたらすものはしばしば理論的に破壊的でさえあるのだから。とても面白いものをもたらしもするが、とどのつまりそれこそが発明の機序なのである。

「これ」は楽しいことかもしれない。あるいは悲しんでいる人もいるかもしれない。その「すべて」において無駄なものはなく、常に祝福されるべきなのである。そこに愛がある。そこには「あなた」も含まれている。

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