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今更ながら「史上最強の哲学入門 東洋の鉄人たち」を読んだ感想

史上最強の哲学入門 東洋の鉄人たち

を読みました。2016年発売の本なので今更感はありますが、とても面白い本なので感想を書くことにしました。

Amazonで購入しましたが、既に読者レビューが山ほどあって、世の中の知的レベルとアンテナの高さに感服する一方、この本に今頃たどり着いた自分にちょっとがっかりするような、、まあ、5年前なら今ほど熱心に読まなかったかもしれないので、今この時に、この本を手にとったことが、むしろラッキーと思うことにしよう。

前置きはさて置き、久しぶりに読み応えのある本でした。これを書き上げるのに、著者の方はどれだけの下調べと試行錯誤を経てたどり着いたんだろう。著者の「何としてでもこの難解な東洋哲学を分かりやすく伝えてみせる」という意気込みを感じました。最後の1ページまで、注意深く、時に大胆な言い回しを用いて解説。面白かった。イッキ読み。

私がこの本を手にとったのは、最近仏教に興味が出てきて「日本仏教」ってインド本来の仏教から大分違うなと思ったから。

悪霊を払ったり、未来を予言したり、死後に極楽浄土に行けると願ったり、救われると説いたり。一体、日本の仏教はどこでそんな風になったんだろうか?

それを理解するために、日本に来る前の「仏教」がどんなものだったのかを知りたいと思いました。

インドで誕生した仏教は、日本に来る前に数百年の時を掛けて、既に道教や儒教といった思想が確立していた中国で消化され、中国仏教なるものが出来上がります。じゃあその時中国にあった「道教」とか「儒教」って一体何なの?

本屋さんに行ってみたところ、道教や儒教は「古代中国思想」と呼ばれ、大きくは『東洋思想』というジャンルにカテゴライズされることが分かりました。本屋さんで東洋思想系の本を探してみましたが、ビジネス系のハウツー本ばっかりで、そういうんじゃないんだよな〜と思い、「東洋思想 入門 本」とグーグル検索したところ、出てきたのがこの本。

史上最強の哲学入門 東洋の鉄人たち

目次を読んでみたところ、そうそう、この感じ!

第一章 インド哲学「悟りの真理」
・ヤージュニャヴァルキヤ 東洋哲学は「自己の探求」から始まった
・釈迦 「私」は存在しない
・龍樹 すべては「空」である
第二章 中国哲学「タオの真理」
・孔子 「仁」と「礼」に込めた熱い想い
・墨子 自信を愛するように他人を愛しなさい
・孟子 「仁」による王道政治を目指す
・荀子 政治の根本は「礼」である
・韓非子 国家を強くすることが政治である
・老子 万物は道から始まる
・荘子 言葉によって境界が生まれる
第三章 日本哲学「禅の真理」
・親鸞 念仏による「他力」の境地へ
・栄西 「思考」を通さずに物事を理解する
・道元 「問題」を破壊し、飛び越える

軽い気持ちで読み始めたけど、すごく読み応えがありました。特に第一章は、ふわふわとした、実態のない雲のような哲学を読み解いていくので、読み手にも集中力が必要です。

読み終わった後の感想は、仏教って哲学だなと思った。

仏教のベースには哲学的な思想があって、それは、実はシッダールタ氏(後のブッダ)が生まれる前から存在していた。だから仏教の前にインド哲学があった。そして、中国に仏教が伝わったときには、既に中国には沢山の思想家が居て(この状態を「諸子百家」(しょしひゃっか)というそうです)、新たな思想が生まれては否定されを繰り返し、磨き上げられた古代中国思想。ちなみに「諸子百家」の中国は紀元前5-2世紀頃のことで、日本はまだ縄文〜弥生時代のとき。日本で土器を作って稲作してるうちに、中国はトンデモない文明大国でした。

そして、古代中国思想の中でも、仏教と相性がよかったものがあります。それが、道教(タオ)だった。道教を説いたのは老子(ろうし)と荘子(そうし)。どの辺が相性がよかったのか?それはぜひ本をお読みください!笑

仏教は哲学であると考えたとき、その側面を強く引継いでいるというか、親和性が高いのは、多分、こう。

インド哲学 → インド仏教 → 中国道教 → 中国禅宗 → 日本禅宗

だから、日本仏教で本来の仏教に近いのは「禅宗」じゃないかと思います。

禅と言えば坐禅。

京都旅行ではしゃいで坐禅体験を申し込んだ、そこのあなた!

目を閉じて「無、全ては無である」とか心に思い浮かべて、禅を体感した気になってません?(それは、ワタシ)

だけど本当は坐禅を組むのは大事でもなんでもなくって、何より大切なのは、釈迦が辿り着いた、あの境地に辿り着くこと。坐禅はそのための方便(やり方)の一つにしか過ぎないんです。

その方便の違いこそが、異なる宗派を生むことになったとこの本では説明します。

さて、「南無阿弥陀」と唱えさせすれば救われます、と説いて一世風靡した親鸞。彼は、仏教の哲学がどんなに素晴らしいものであっても、人々に理解されないなら無意味であると考えていました。

釈迦は「不幸とは、自分自身の思考が作り出しているものにすぎず、思考を停止すれば、不幸は止まる」ということを悟りました。

だけど、どうやったらその境地に辿り着けるのでしょうか?

「考えてはいけない」と考えれば考えるほど「『考えてはいけない』ということを考える」無限ループに陥るし、私のような貧しい者は、坐禅を組んだり、山籠りをしたり、滝に打たれたりしてる暇はないんです。そんなことしてる余裕ないんです!!(農民Aさんの主張)

どうやったらこの苦しみから抜けられるんだ!!どうしたらこの思考を止められるんだ!!!!

そんな時、難解な哲学の理屈を説くよりも、たったひとつの言葉を繰り返すことで、スッと心が軽くなることがある。

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

その時、モヤが晴れて、心が軽くなったその一瞬、釈迦の境地に辿り着ける可能性があるかもしれない。親鸞はそこにかけた。

そうして、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、極楽浄土に行けると説いた浄土真宗は、これまで置き去りにされてきた多くの民衆を救ったのです。(その結果、日本で最も信者数が多いのは浄土真宗。)ただ、彼の深い哲学的な思想は理解されずに、多くの大衆に「念仏を唱えさえすれば、悪いことをしても極楽浄土にいける」と間違った理解をされてしまったことも事実。晩年の親鸞はその誤解を説くために全国を行脚したそうです。でも、そんな風に誤解されることも承知の上で、それでもなお、本当に貧しい人たちを救いたいと思ったからこそ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われると親鸞は言い続けたんだなと思いました。嘘も方便のうちとは言いますが、それってなんだか東洋っぽいなって感覚的に思うのは私だけでしょうかね。

親鸞センパイ、リスペクト。

よりどりみどりのユニークな日本仏教、そう考えると奥が深い。


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