中学受験は子の人生を狂わせる


 Twitterでは時折”中学受験ツイート”なるものがバズる。子の中学受験に重課金して(S◯PIXなど)必死になる親、中学受験を経験したエリートたちの学歴主義、中学受験に対応可能な家庭の教育資本vs中間層・貧困層、etc.
 わたし自身も中学受験がトラウマになるほど経験した身なので、他人事のようには思えずにいつも見ている。

 わたしは、確かに中学受験をトラウマになるほど経験した。しかし、大人になった今、全くのエリートではない。エリートどころか、24歳になってもまだ大学5年生だ。しかも、地方の公立芸大で。来年度卒業予定。つまりは一浪二留ということだ。
 これは、中学受験の副作用と言える。中学受験の勝ち組エリートからして見れば、わたしは中学受験の圧倒的敗北者だ。中学受験の経験者として、中学受験の先に転落した未来をひとつ紹介してみようと思う。


中学受験の動機

 そもそも、中学受験をするキッズたちのうちの何割が自分の意思で中学受験をしているのだろうか?これはあくまでも主観だが、半分以上のキッズたちは親の意向で中学受験をさせられていると感じる。

 「君たちが合格できたのは、父親の『経済力』、そして母親の『狂気』」
   ──二月の勝者-絶対合格の教室-

 これは、週刊スピリッツに連載されていたお受験漫画(テレビドラマ化もしている)の冒頭のセリフだ。
 わたしの家庭ももれなくそうであった。父親が管理職で、母親が学歴厨だった。

 わたしの母親はどうしようもない学歴コンプレックスを患っている。それはもう病的に。彼女自身、学部は某私立大の通信課程を卒業し、社会人として働き、子育てが落ち着いたかどうかという頃に某国立大学に聴講で通い始め、そのまま修士号を取った。
 どうもそれは彼女自身の生い立ちに原因があるらしい。実家とは絶縁しているそうなので、あまり過去のことについて話したがらないが、教育にお金をかけてもらっていなかったということはなんとなく察している(高校時代のかなりの時間をアルバイトに費やしていたそうだ)。

 おそらく、「親が教育にお金をかけてくれてさえいれば、自分はもっと違う人生を送れたのかもしれない」という幻想を抱いていたのだろう。その幻想が、「親が教育にお金をかければ、子は必ず幸せになれる」という強迫観念に変わっていったのだ。
 そして、わたしに中学受験をさせることにした。わたしはそう推理している。

 とはいえわたしは一度も中学受験をすることを承諾していなかった。地元の友達と同じように地元の公立中学に進学することを強く願っていたし、某私立中には英検の資格で自己推薦で合格したにも関わらず(母が勝手に書類を送っていた)、入学を辞退するという受験ボイコットを行なった。相手方にしてみれば大変に迷惑な話である。

 それでもわたしは勉強せざるを得なかった。母から出された課題を決められた時間までに終わらせていなければ、怒鳴られたり、所有物を取り上げられたり、ご飯を抜きにされたり、ひどい時には殴られたりするからだ。いわゆる教育虐待である。
 もちろん反抗もしたが、「あんたはエエ中学に行って、エエ高校に行って、国公立の大学を卒業して、エエ企業に就職して幸せになるんや」と弾圧された。ストレスで抜毛癖がはじまり、頭頂部にてっぺんハゲができた。


 中学受験をするキッズのほとんどが有名塾に通う。全国区では日◯研、都内ではS◯PIX、関西では浜◯園やなどだろうか。それほどエリート校志望でなくとも、どこかの塾で中学受験専門の知識を叩き込まれる。
 しかし、わたしの母はわたしを塾に通わせなかった。これも推測にすぎないが、おそらく「自分の手柄で女を難関中学に合格させたい」という野望があったのだろう。

 その教育方針は狂っていた。小学1年生からは進◯ゼミに入会、小学3年生からは母自身がホームティーチャーをしているE◯Cの見本教材の横流し(E◯Cジュニアには算数部門もある)、小学5年生からはZ◯にも入会。小学1年生からは毎年漢字検定を受検。その他、インターネットに落ちている様々な中学の過去問をプリントアウトしたもの。
 わたしは、小学6年生の時点で中学3年生までの数学を全て頭に叩き込まれていた(中学受験の算数問題の基本は中学の数学知識で解けるため)。

 いちばん狂っていたのは、大学受験のセンター日本史一問一答を手渡されたことだ。わたしは生まれつき何も勉強しなくても国語の成績が良いタイプで、算数は母が中学数学を叩き込み、理科はZ◯の教材に頼っていたが、社会だけは母の力のみではどうしようもなかった。だから、大学受験の知識までを一問一答で詰め込みさえすれば対応できると考えたのだろう。あまりにも中学受験エアプがすぎる。

 塾にも通わず、友達と遊ぶ時間も奪われ、一度家に帰ればもう家から出られない。小学校5~6年生の頃は、学校と習い事と家の往復のみというほとんど軟禁状態の2年間だった。

 当然、第一志望と第二志望の国立中高一貫校には落ちた。教育方針が狂っていたのだから仕方がない。もちろん母の志望でありわたしの志望ではないのでさしてショックではなかった。
 第三志望の某大学係属の私立中高一貫校は、再び自己推薦を利用しようとした母が入試相談会に参加したときに、五◯木模試の成績表も持参しており、校長?理事長?に「その成績であれば自己推薦枠の専願コースよりも一般入試の併願コースをおすすめします。そちらのコースの方が係属校への推薦枠が大きいです。」と言われ、さらには「受験していただければぜひ合格とさせていただきますよ」とまで言われたらしい(事実かどうかは不明)。
 半ばコネのような形で、第三志望の私立中高一貫校に合格した。

 中学受験自体はここでひと段落したが、ここが地獄の始まりだった。


暗黒の中学時代から公立高校再受験へ

 晴れて中学生になったわたしは、母から驚くべきことを聞かされた。

「あんたは私立に行く権利を中学で使ったんやから、高校と大学は国公立しか行かせへん。うちにはあんたを全部私立に行かせるほどのお金はない。弟のこともあるし、あの子はあんたよりアカンタレやねんから、あんたがしっかりしいや」

 無理やり中高一貫校に進学させておいて何やねん、という気持ちもあった。しかし、わたしはまた別の理由で自ら高校の再受験を望むことになる。

 その理由は、いじめだった。わたしが第一、第二志望を落ちて滑り込んだように、他の同級生たちも第一、第二志望を落ちたような子たちばかりだった(というかそういうクラスだった。ここを第一志望にしてきた専願の子たちは違うコースにくくられ、クラスが混じることはなかった)。
 みんな、それなりに勉強をしてきたが、努力が報われなかった子たちである。そういう子たちはみんな性格がひねくれていた。いじめの内容が陰湿であった。

 母がわたしに中学受験をさせようとしたもう一つの理由として、地元の治安が悪いからというものがあった。少人数教育の私立中に通わせれば平和が訪れると思っていたのだろう。現実は、皮肉にも、表には出ない陰湿ないじめが横行していたのだった。

 わたしは何度も学校を辞めたいと親に話した。親身にしてくれていた子からは精神科を勧められた。いじめられていて精神が限界だという訴えはなかなか届かず、そうこうしているうちに3年生になり、これは中高一貫を離脱して地元の高校を再受験をする方向に転換した方が早いという結論に至った。
 どうせ再受験するのであれば、自分をいじめてきたやつらの進学する高校よりもよっぽど偏差値の高い高校に行って見返してやろう、という気持ちで勉強に取り組んだ。

 母は、ここでもまたわたしを塾に通わせなかった。「私立の高い授業料は、公立のアホ中の子らが塾に通ってる分の上乗せや」というまた謎理論であった。
 わたしは地元の図書館の自習スペースでひたすら孤独に勉強した。ネットで良い参考書を検索し、母に値段を伝えてお金をもらい、書店で手に入れる。どうしてもわからないところは放課後に学校の先生に教わる、という受験生生活だった。

 ここで、前述の「うちにはあんたを全部私立に行かせるほどのお金はない」が効いてくる。私立併願をさせてもらえない公立一本勝負だった。
 地元に行きたい公立高校があったのだが、独学ではいつも模試でB判定しか出なかった。その高校には特進科(前期入試)と普通科(後期入試)があり、わたしは普通科に行きたかった。
 しかし、母は後期入試で冒険はさせられないと言う。前期で特進科を受けて、落ちたら後期で別の高校(偏差値が10ほど下がる)に行きなさいと言った。わたしはどうしても特進科に行きたくなかったので、結局、上記の二校のちょうど間のレベルの地元から少し離れた高校を前期入試で受けた。もう、母とも受験とも闘う気力が残っていなかった。やけくそで合格した。


高校進学、アイデンティティの崩壊

 その高校は、学年の5分の1が国公立に合格するという微妙に意識の高い自称進学校だった。
 やけくそにレベルを下げて合格してしまったので、入学してすぐの進◯模試で学年2位を取ってしまった。これがよくなかった。また母が図に乗るのである。

 わたしは中学が家から遠かったために、部活に入ることを許されなかったため、部活というものに憧れがあった。昔から母の目を盗んでは漫画やイラストを描いて遊んでいたので、本当は美術部に入りたかったのだが、いろいろあって運動部のマネージャーになった。
 部活に入ると、さすがに成績が下がる。自称進学校でも、学年に何人かは部活に入らずに受験勉強ばかりしている生徒たちもいた。そういう生徒たちにはどんどん追い抜かれた。
 母からは散々チクチクと言われ、部活をやめざるを得ない方向性へと導かれかけたが、なんとか部活は2年半やり切って引退した。


 高校2年生ぐらいまでは、京都大学の総合人間学部を目指していたのだが、成績が危うくなってきたので、3年生の頃に大阪大学の文学部に少しだけレベルを下げた。(下がっているのか?)
 そして、受験勉強だけの夏が始まったところで、わたしは気づいたのである。

 これは、誰のための人生なんだろう?

 わたしは小学生の頃から、母に殴られないために勉強してきた。中学ではいじめてきたやつらに負けないように。高校では自称進学校の国公立信仰に泳がされて。そして、なんとなくレベル的に阪大志望を名乗っている(しかも母のために)───

 6歳から18歳までに積み上げてきたいろいろなものが崩れた。誰のために生きてきたのだろう。わたしのこの人生の主人公は母ではないか?

 わたしの人生は、誰のためにある?

 わたしはここで、学歴レースから降りることを決意した。現役で大学受験はせずに、浪人して、芸大へ行こうと思った。勉強には飽きた。絵を描くためだけの日々が欲しい。学歴厨の母のものさしでは計れない、自由なところへ。

 とはいえ、経済的な支援は望めない。芸大受験は画塾に通わなければまず難しいと聞く。そんなときに、京都市立芸術大学の入試はセンター試験の配点が高いということを知った。実技だってかなり訓練しなければならないだろうけれど、今までガリ勉だったわたしが芸大に滑り込むための手段はこれしかない。
 わたしは、第一志望を京都市立芸術大学に絞って、現役での大学受験をボイコットし、アルバイトをしながら予備校の学費を貯めて浪人することを決意した。

 一連のことを母に話すと、当然ブチ切れられた。母は芸術系の学部のある大学を徹底的にサーチして、大阪市立大学の生活科学部を受けろと言った。それでも満足しないのであれば、仮面浪人をして好きな大学に行けばいい。5年目の学費は自分で出しなさい。
 何度話し合っても母は折れなかったので、わたしは折れたふりをした。表面上は大阪市立大学を志望しておき、裏では画塾に通い京都市立芸術大学を目指す。当時、河◯塾に通っていたのだが、週末のたびに、母に「塾に行ってくる」と言ってはアルバイトに行き、画塾に行った。平日は、京都市立芸術大学の入試にもセンター試験が必要なため、終電まで勉強して帰る毎日だった。


 高3の冬、センター試験が終わり、二次試験出願期間が来る。
 母は、「あんた芸大がどうとか言うてたけど結局どうするんや」と言った。わたしはここで全て種明かしをした。現役では大学受験をしないこと。隠れてアルバイトをして画塾に通っていたこと。浪人して京都市立芸術大学を受けること。

 母は鬼の形相で怒鳴った。
「あんたの教育にいくら注ぎ込んできたと思ってるんや」
「浪人生がうちにおるなんて恥ずかしくて外も出歩かれへん」
「芸大なんて行ってもまともな就職ないやろ。あんたが野垂れ死んでも助けたらへんからな」

 二次試験出願期間の2週間、毎日のように「どこでもいいから今から志願書取り寄せなさい」「先生に頭下げて内申書もらってこい」と言われた。全て手遅れだということを母は知らなかった。わたしは適当にやり過ごして、無事にぬるっと浪人した。

 進路が決まっていないということだけが決まって、高校を卒業した。


第一志望校への合格と絶望

 一浪して、京都市立芸術大学の工芸科に合格した。勝ち試合を確信していたので、合格したことに特に喜びもなかった。早朝アルバイトから解放されたことだけが嬉しかった。
(ちなみに、私立に行かせるお金は(以下略)と言われていたので、大阪芸術大学の学費全額免除特待生を取った。手続き期限の直前まで悩んだが、まあ京都市立芸術大学の方が美術界でのネームバリューはあるらしいということでこちらを選んだ。)

 合格したとき、母は「あんたはさすがうちの子やなあ。日本で一番歴史のある芸大に合格するなんて」と手のひらを返すように祝った。ついでに言い放った「でも、あんたが京芸に受かったのはお母さんが昔からあんたに勉強させてきたからやなあ」という一言は今でも忘れられない。そんなわけないやろ。


 しかし、大学生活もうまく行かない。そもそも、18年間自我なく生きてきたわたしが、自我を獲得した1年目に選んだ大学の学科でうまく行くはずがなかった。いわば精神年齢1歳のような状態で行った選択が正しいなんてことはほとんど奇跡だ。
 学科の人間関係も内容も肌に合わず、鬱気味になり大学に行かなくなった。家に帰れば頭のおかしい母がいるし、学校に行けば孤独、選んだ工芸も向いていない。
 とりあえず、鬱の要素だけでも排除していこうということで、またバカみたいに働いてお金を貯めて実家を出た。働きすぎた反動でさらに鬱になり、精神科に通い始めたのもこの頃である。躁鬱病と診断された(浪人生の頃にパワハラでバイトを一度辞めており、そのときにADHDと適応障害を診断されていたので、初めての精神科ではない)。

 そして、学科を変えようと決意した。美術科の、なんでも許される専攻に移籍することにした。しかしこれのタイミングが悪く、転科試験の〆切は過ぎたばかりで、あと1年待たなければならないということになった。そして、工芸科で取った単位は美術科に行くとチャラになると知り、留年するらしいということがわかった。
 とりあえず半年は学科の単位を取るために通い、残りの半年は休学して留年分の学費を貯めるためにキャバクラで働いて、転科試験を受けた。合格して、晴れて大学3年生から1年生になることが決まった。

 そして、現在に至る。


 わたしは今、大学院進学を希望している。単位システムの都合上、あと1年半は学部生をしなければならないのだが、もう浪人も休学も転科も留年もしたわたしは無敵の人なのだ。ここまで来たら、モラトリアムはドシドシ延ばしていくつもりだ。
 そのためにはお金が必要で、大学院の学費は自己負担することになった。それでも、学部の5年半(半年は休学していたのでお金はかかっていない)だけでも全額払ってくれる父には感謝している。仕送りも家賃以下ではあるがもらえているだけありがたい。
 母に大学院の話をすると「あんたの一番の親孝行は学業に励むことや。がんばりなさい」と相変わらずの返事がきた。きっとわたしの学歴に箔が付くことが嬉しいのだろう。でも学費は一切払うつもりはないらしい。どういうこと?


 もしわたしの人生が初めから自分のものであれば、ここに来るまでこんなにまわりくどいことをしなくてもよかっただろうに、と思う。ストレートで芸大に入学できたかもしれないし、学部4年+修士2年の学費も父が全額負担してくれたかもしれないし、こんなに働いてばかりの長期休暇を毎年送らなくてもよかったかもしれない。

 中学受験は人の人生を狂わせる。中学受験という最悪な教育ビジネスのせいでわたしの人生は狂ったのだ。


 「親ガチャという言葉は親不孝だ」という女子アナの発言が少し話題になったが、親ガチャの当たり外れは確かに存在する。中学の同級生はそのまま係属の某有名エリート私立大に進学したし、高校の同級生は海外留学をしたりして将来の夢を叶えている。
 そういった家庭に比べれば、わたしの人生は少しハードモードだし、着地点は地味で、地味な毎日を生きていくためにかなりの時間を労働に費やしている。
 親には申し訳ないけれど、はっきり言って、親ガチャはハズレだ。親ガチャが当たりであれば小学6年生でてっぺんハゲを作らなかっただろうし、大人になって毎日大量の精神薬を飲む必要もないだろうし、キャバクラで働く必要もなかったし、今もなお夜職にしがみつく必要もないだろう。

 それでも、死なない限り、人生は続いていく。自分の人生をいちばん肯定できるのは自分だ。自分自身が肯定できる人生を、自分で作っていかなければならない。


 どうか、中学受験で人生を狂わされてしまった人たちが、狂ってしまった人生に希望を見出せる日が来ますように。
 そして、中学受験で人生を狂わせる子供ができる限り少なくありますように。

 これが、中学受験に人生を狂わされたひとりの人間の末路です。



♥𝓫𝓲𝓰 𝓵𝓸𝓿𝓮♥ をください♡ なぜなら文章でごはんを食べたいので♡