Book Layer
鮭の切り身を焼いているときに小さな地震が発生した。すぐに火を消し、念のためダイニングテーブルの脚元へと潜る。小さな揺れは30秒ほど続いた。壁の向こうでどさどさという音が聞こえる。その後は何も音が聞こえなかった。沈黙だけが耳に届く。
地震速報を見る。震源地がここではなく、そこではないかを一応確認した。グリルの窓から覗くと、鮭は余熱で丁度良く火が通っていたので、取り出して粗熱を取る。保存容器に詰め、冷蔵庫へと閉まった。先ほどの音は隣の部屋の角の、いつまでも山積みにしたままの本が崩れた音だ。未読の本の山は、掃除をする度に迂回をしなければならない場所だったので、この崩壊は機である。
妻は楽しそうな本を見つければ値段の高い安いに関わらず購入する性質の人間だった。読むのも別段早い方ではない。購入と消費の速度が釣り合っていないのは本人にも分かっているらしいが、
「本は知識だから無駄にならないよ」と笑いながら言った。そうではなく、私はこの家がいつか本の重みによって床が抜けるのを危惧しているのだ。
本だけが、彼女がなんの負担も感じずに楽しめることだった。自由に羽ばたける空が目の前にどこまでも広がっているのに上昇できる風が一筋しかないみたいだと思った。着るものにも食事にも興味を持てないと言う彼女が本屋にいる時だけはいつもとは違う顔をしていて、その目は興奮した猫を彷彿とさせた。
本棚から落下した本を手に取り一冊一冊収めていく。重量の軽い、雑に仕舞われていた文庫本だけが
落ちたようだった。未読の本たちは地滑りのように床に散乱している。私はその並びを崩さぬように注意しつつ元の形へ成形し直した。
「神秘家列伝 其ノ2」「聖者のレッスン」「クッキングフォーギークス」「デザインと障害がであうとき」「四つの署名」それから英語で書かれた分厚い専門書が4冊続き、フランス語で書かれたスヌーピーの絵本、「13歳からの税」「見聞 考古学のすすめ」「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2」「源氏物語」…
ジャンルも言語も全然違う本たちを積み重ねていき、床がそのひと山を除き完全に綺麗になった。休憩をしようとコーヒーを淹れに立ち上がると電話が鳴る。妻からだった。
「心配になって電話しちゃった。こっちは地震なんて滅多に起きないから」いつもの彼女の声よりもずっと暗く響く。
「もう寝る時間でしょう、ありがとね。こっちは大丈夫だったよ。けど、君の未読の本層が地滑りを起こしたんだ。もう片付けちゃったから安心して」明るく、わざとらしくないように声を出す。
「日本で地震があると私のところまですぐに情報が伝わらないのが辛い。あなたが死んでしまっても私はすぐに気付けない」よっぽど思い詰めてしまったのか、電話の向こうで泣いているようだった。帰ってこればいいじゃないかと言いたくなったが、目を猫のように輝かせる彼女の横顔を思い出してぐっと堪えた。
「安全対策のために本棚を補強しておこう。本の落下を抑制できるテープもあるらしいんだ。家中の本棚に貼ってもまだ余るくらい買っておくよ」私がそう言うと、盛大に鼻水をかむ音がして、「500メートルは必要だね」と彼女は笑った。
目の前にどこまでも広がる空の中から上昇できるたった一筋の風を捉える才能が、私の死が原因で枯れてしまったなんてことは避けたい。電話を切った後、コーヒーを飲みながらパソコンで地震対策グッズを値段の高い安い関係なく、次から次へカートに突っ込んでいった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?