"曖昧な文章"

最近、自己嫌悪感が高まっている。

昔持っていた【誰かの何者かになりたい】という感情は、今では【何者にもなりたくない】という感情に置き換わりつつある。

どうも昨今の若い人間は自分自身にアイデンティティを持とうとしているが、僕にとって自己という概念は感情や思考に左右されないからこそ面白いと思っている節があるから、若い人間が個性的な見た目や言動をしていても何も感じない。多分中国製なのだろう。ブランドロゴを着飾った粗悪品にしか見えない。

そんな僕も中国の大量生産工場で作られた一端として生きているわけなのだが、やはり粗悪品。胸に穴が空いている。しかも貫通していない程度の穴であるから、埃が溜まる。
掃除のおばさんを雇いたいが、出来ない。
結局人間は1人なのであるのだし。

そう。
そんな思考が巡り巡る。

誰かの何か支えになっていると思った瞬間、現実を見て死にたくなるのだ。何者になりたいと思った瞬間から、何者でもない自分自身を殺したくなってしまうのだ。


だからこそ誰しも死にたいと思いながら生きているのが普遍的だと思えば、何故かそうでもない。

思ったより他の人間たちは幸せに生きている。
結婚したり、仕事で給料が上がったり、友達と飲み歩いたり。それが幸せかどうかと言えば個人によって様々なのだが、ただひとつ確定している事柄として、僕自身はその中に入ることが出来ないのだ、ということである。結局何も手に入れることが出来ないのだ、ということである。

そう思うと、自分が呼吸している意味を糾弾したい。何故息をしている?つまらない自分は貴重な酸素を栄養素としている?

最近ディスカバリーチャンネルを見た。
ヌーが肉食の動物に捕食される映像。
僕はそのヌーみたいな、ヒエラルキーの上に位置する人間に捕食される立場なのだろう、と思っていたりする。
今は食べられないように頑張って逃げて逃げて、他の個体を犠牲にして、自分の体力を犠牲にしてきたわけであるが、何故か今思う。食べられるのが運命なのだから今食べられても良いのでは?と。

そんな僕を「今までライオンとかから逃げられて偉かったね!」と褒めて欲しいのだが、僕は天邪鬼であるから、褒めて欲しいっす!なんて言葉は発しない。ただその時を待つように過ごしている。

よくよく考えたらそんな狩りの手法は肉食動物なくせに自分自身は狩られる側な構図が面白いわけだけれども、実質それは笑っているがいつ捕食されるかビクビクしているわけだし、怖いし、恐怖感が付き纏っているのは確かだ。

愛されたいわけではない。愛されることが怖い。愛される恐怖を知らない人間が面白い。いつか狩られると運命付けられた人間を愛している人間を信用したくない。驕りではない。怖いだけだ。幽霊が見える人間に「幽霊が見えて、それだけで凄いのにさ、怖がらない方がいいよ。見えない人もいるんだから」と言っているのと一緒だ。

ちなみにだ。これは通常運転である。

僕を知って、早く幻滅して、早く殺して下さい、なんて言ってもだ。多分僕は逃げるんだろうね。

粗悪品はどうも、消耗が早い癖に高く売れる。

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