"空缶"

特に何の理由も無く、noteを更新したくなった。
本当に何の理由も無い。

例えば。

立ち飲みの居酒屋で1人南無南無と酒を飲んでいたら初恋の女性にたまたま出会えた。

2日連続で百円を拾った。

リゼロの新台を打っていたら、100回転以下で初当たりを引いた。

そんなことは僕の日常の中でこれっぽっちもない。これっぽっちという表現を数学的に表した時、それは0ということである。

つまり、有りはしない。

有りもしないことを自分自身の脳内で補完してポジティブシンキングになるのも面白いが、それは酔っている時しか出来ないのである。

そう。

だからこそ、このnoteのタイトルは空缶なのだ。今目の前にある500mlの酎ハイの缶の中には何も残っていない光景が相待って、決めた。

酒がないのは残念極まりないが、何か残っているのならば、僕の溜息のCO2と化合した水滴である。

だが、そんな水滴は蒸発して消えていくように思えるが、実は消えはしない。空気中の水分として水滴は生きていく。

そんな原理で現在自室の乾燥が緩和するなら万々歳なのだけれども、乾燥対策としては有り得ないほどチープな訳で、酎ハイ150円で1LDKが潤うならば確実にアイリスオーヤマはすぐに造酒を始めるだろう。

うん。

他にも、僕はふと思うことがある。

僕は今こうやって文章をスマートフォンで打ち込んでいるが、【僕は今こうやって文章をスマートフォンで打ち込んでいるわけであるが】という文章をスマートフォンで打ち込んでいる時というのは、『今』なのであろうか。『過去』なのだろうか。

つまり僕の思うところは、数秒前に行った事象や感情は、今の出来事として捉えるのだろうか。それとも、過去の出来事として捉えるのだろうか、なんてことである。

もう少し分かりやすくしよう。
この文章を見ている貴方は手を一度叩く。そして、この文章を見ることを再開するとした。

さて、この段落に視線を移したとき、貴方が手を叩いたのは『今』だろうか?『過去』だろうか?

この疑問を僕は真面目に考えるが、大衆的な回答として【どっちでも良い】が8割型を占めるに違いないのは分かり切っている。

B型の女から受けた【人生観】という漠然としたテーマを基本軸とした相談を受けていた時、その人生観を肯定するか、否定するまでいかないとも糾弾を始めるか。その選択が大衆的にどっちでも良いのだから、間違いない。

だがそんな二択も一つに絞らなければならない。
「君の頑張りは僕が見ているから、君が誰からも評価されなくとも僕が肯定してあげるよ」なんてことを電話越しで言わなければならない。

何が言いたいのかと言えばだ。
自分自身は「今を生きていたい」という欲望のまま生活している感覚が、何故だか今、どうも過去の記憶に縋り付いているようでままならないのである。

「僕が肯定してあげるよ」のように、誰からも気にされていなかった人生を埋めるかのように言葉を発しているようで、気持ちが悪いのだ。

全く過去で与えられなかった、他人からの喜怒哀楽、評価、愛情、忖度などなど。これまでつまらないと感じていたものを、今の自分自身が欲しているのは、何故だろうか?

そんなことを考えている。

何故が自室に蔓延するのなら、湿度を上げてくれ。乾燥肌なのだ。

だから毎日酒を飲んで、そんなことを考える。

結局、空缶はただ何もしない。
腹立たしいね。

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