命の価値は何で決まるか
今回およそ三週間ぶりの投稿です。 前回同様に、この議題についての意見をコメントでお待ちしております。
私は「人並み」「普通」「当たり前」の三つの言葉が嫌いだ。 これらの言葉は、自称常識人の作り出した、エゴの塊だからだ。 今回は、私の「命」に対する価値観について書かせて頂こうと思う。
よく「人は皆平等」、「命は平等」という言葉を聞くと思う。 そして、その考えを全員が美徳としている。 だが、私はこの考えを一生涯理解することはないし、するつもりも毛頭ない。 では、その理由について書こう。 「人は皆平等」が美徳なら、「皆違って皆良い」は悪徳となるはずだ。 何故なら、この二つの考え方は対極的だからだ。 なのに人々は、これら二つとも美徳としている。 なんて自分勝手なことだろう。 全員で足並みを揃えることを互いに強要しておきながら、自らがそこから振り落とされれば、向き不向きがあると自分に言い聞かせて、自信を慰める。 破綻していることに気づいてもそれを認めようとしない。 それは何故か。 至極簡単に答えは出た。 彼らは認めたくないのだ。 自身が特別でもなんでもない、ただの村人Aだということを。 奇才と言われる人物たちは、速いうちに自身に向いているものを見つけ出す。 そして、それ以外のものにほとんど興味を示さない。 最初のうちは、誰もが彼らを見下し、否定し、傷つける。 だが、その奇才の才能が認められた瞬間、凡人たちは手首がねじ切れんとばかりの勢いで、手のひら返しをする。 凡人が努力している人物や、何かにのめり込む人を見下すのは、怖いからだ。 全員が「普通」でいる中で、その輪を平然と壊し、逸脱している「特殊」「特別」と言われる存在が怖い。 だからそんな人間に媚を売ったり、潰しにかかったりする。 だが、大成した瞬間に「特別」にさらに媚び、自身の地位を作り出そうとする。「醜い」としか言い表せられない。 いつの間にか生まれた「普通」に縋りつき、そこからずれることを恐れて停滞し、「特別」が生まれればそこの固執する。 まさしく小判鮫だ。 譲れないものも一切ない自分自身に嫌気がさしても、彼らはまた自分たちを慰めるのだろう。
次の話題に移ろう。 「命は平等」という言葉についての私の考えである。 仮に、人間全ての命が平等になったとしよう。 その場合、ニュース番組は芸能人の病死の次に、ホームレスの自殺、その後に交通事故で死んだ小学生の報道が流れるだろう。 そうやって延々と死のニュースが流れることとなる。 けれども、世間が気にするのは、悲劇の事故か、奇怪な殺人事件か、芸能人の死だけだろう。 芸能界で売れた人間と、路上で日銭を稼いで生きる人間の命の価値が同じなわけがない。 私と鈴木福くんの命の価値が同じなわけがない。所詮、人の命の価値は、社会的影響の大きさによって決められる。 社会的影響は無くとも、死んだ人間に多少なりとも影響はあるだろう。 だが、ここでも、命の価値は変わる。 例として私自身の話を書くが、五月に私の父が死んだが、私の気分はいつも以上に気分は高揚していた。 それは、私にとってそれほどに価値のないものだったからだ。対して、私の親友が死んだ場合、私は当分の間、立ち直れないだろう。 周囲の人間で構築されたコミュニティの中でも価値が作られる。 死人の知人に報道番組がインタビューするのは、裏の顔を作り出し、それを晒すためだ。
まとめると、命の価値とは、自己の周囲が求める条件と、世間の望む「普通」以上の何かがあるかによって決まる。 それを持つ人の価値は高く、持たなければ低い。結局、人の価値は他人に決められたレッテルによってしか決まらないし、わからないものなのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?