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~子供への道徳教育~善と悪とは何か

寝ようと思ったら善悪について急に考え出して寝れなくなったのでとりあえずいま布団で考えたことをここにまとめておく

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子供に、〇〇はいいのに〇〇はダメなの?って聞かれて困ったことありませんか??

子供は察しが良いですね。

道徳教育というモノは無論大人に道徳の教養がないとできません。

では道徳教育とはなんでしょう?

そもそも、やって良いことと悪いことの区別ってどうやってつけるのでしょう?

そんなことを考えていたら眠れなくなったのでここに思うことをぶつけてから寝ようかと思います。

カントの善悪とはなんなのか


カントのいう「善い」「悪い」は、社会的、一般 的に正しいか正しくないかということではなく、 川の流れに従うように、無条件に自然の法則に従うことを善悪に当てはめている。

私たちは誰しも、幸せになりたいという欲求を抱いている。

また誰かによく思われたい、好かれたいという欲求もある。

そういった思いから行われる正しい行為(ボランティア活動、手助け)には見返りをうけたいという目的が根底にある。

カントはそういう見返りを求める行為を「善」 とは呼ばないのだ。

湯浅が考える善と悪

私は善悪というものは人が言語能力を獲得し、コミュニケーションを取れるようになってから生まれた概念のように思える。

なぜなら、サバンナの動物や、海の魚のような捕食者と獲物の関係は生命の営みを維持するための世界の摂理であり、それは時間がもたらす生物の一定方向への動きであり、

これらの動きはビックバン以来ずっと続いていると言われている星の動きと同じなので、これには善も悪もなく、ただ事象が起きているだけとしかいえないからだ。

たとえば言語も感情もないホモ・サピエンスが生きるために人を殺めたらそれを一概に悪とは言えないと私は思う。

そして善悪は人がそのような事象に対して、後に獲得した感情から、言語化し、概念として確立させたところから生まれたような気がする。

では善悪とはなんだろうか。


一般的には悪は人のものを盗んだり、人を不快にさせる行為のことを指す。

善は人が気持ちよくなるような行為のことを指す。

無論大人は子供に対して悪の行動をとればそれを叱るし、善の行動をとればそれを褒め、教育を行うことは言うまでもない。

ではその子供がプラトニックな状態でなんの躾や教育も受けずに十分な食事と、交配ができる環境を与えたらどのような結果になるだろう。

勿論それについて知ろうと実験することは悪なので実証はできないが…

私は善という概念は共同体の掟の中にあるのではないかと最近思うようになってきた。

(共同体とは分かりやすいから使っているだけであって、ここでは2人以上の閉鎖的なコミュニケーションを取り合うグループのことを指す)

共同体の掟とは?


共同体の掟とは、例えば古来における集団で狩をしていた人間たちの中にあった、獲物はとり分ける、男は狩りに出る、モノは盗むなといったルールのことだ。

共同体といっても沢山の種類がある。

友人、村、家族、学校、会社、組合、国だってそうだ。

では例えば村人全員が嫌がるが、国が救われる、みたいな事象が起きたとしよう。

そのような場合、国を救うことは善なのだろうか。

人は生命活動を維持するために社会に依存しなければならない存在であるとするならば、

大きな共同体にとってメリットのあることをすることが善なのだろう。

私的には!
善悪の選択をする選択者にとって一番大切な共同体に善になるように行動すればそれでいいと思う。

道徳教育と善悪について

さて、人間に言語能力がなければ知恵の獲得もない。

知恵がなければ感情も生まれないと思うので見境なしにモノは盗むし、戦いを起こすだろう。

だがそれは言語能力のない、一つの生物としての、ヒトとしてのホメオスタシスだとすれば悪ではないのだろう。


話が少々逸れたが、子供に道徳教育を行う際はまずこれらを教育するべきだと今私は思った。

掟は共同体によって変わるから善悪も変わりうるモノである

・善悪を分別するには共同体にとって良い行為であるか悪い行為であるかを判断する必要がある

とりあえず今のところこれしか思い付いていないが、上述した二つのことを教えると子供のこんな質問に答えられる

「なんで〇〇くんの家は良いのにうちはだめなの?」

「なんで学校では許されているのに家じゃダメなの?」


善悪は共同体によって変わるのではないか。

当たり前か笑

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