見出し画像

あほやなぁ

先日電車に乗っていたら、ぐずぐずと泣きながら俯く女の子に出会った。

私より2~3歳ぐらい年下か。失恋でもしたのだろうか。
電車の中の人々もちらちらと気にしている。

あぁ、そんなに顔をこすったら、化粧も服もぐちゃぐちゃだ。
明日の朝には目がパンパンに腫れてしまう。

「どうしたの」

数分見守っていたが、気づけば声をかけていた。不審者だと思われるか。だけど、私は損するほどお人よしで、昔からこういうのは放っておけないのだ。

「…バイト先で、大きな、失敗を、してしまったんです」

しゃくりあげながら彼女は応える。
訊けばバイト先の雑貨店で7千円もの誤差を出して、店長にこっぴどく叱られたという。レジのミスをしたのは自分かもしれない、と思いながら言い出せなかったのだと。1年以上働いた場所での信頼を失ったもうだめだ、と一息に言うと、彼女はそれきり顔を覆ってしまった。

「あほやなぁ」

気づけば私はそう口にしていた。そんなのはよくあることだ。迷惑をかけたらごめんなさい、そして次はやらないように気をつける。それでいいのだ。

「…」

彼女は何も言わなかった。怒ったような顔ではらはらと泣きながら、夜の景色を眺めている。私はその隣で立ち尽くす。彼女の心の底で渦巻く熱い絶望は、どんな言葉を掛けても冷めないだろう。

店長、たまたま虫の居所が悪かっただけだと思うよ。
セブンイレブンで、アメリカンドックでも食べようか。
そんなしょうもないことでいつまでも泣かんとき。

そうして考えている間に、私の降りなければいけない駅に着いてしまった。

プシューッ、と悲しいため息を立てて走り出す電車の中で、本を読む彼女の横顔が光った。手にしていた本は、星野源の「そして生活は続く」だ。私もずっと、ずっと、大好きな本だ。

彼女はきっとバイトをやめてしまうだろう、という確信が私の胸を締め付けた。



あくる日図書館に行くと、不安そうに本棚を見つめる女の子がいた。

中学生らしい制服のセーターは、端がギザギザと激しくほつれている。
ハルタのローファーが床とぶつかり合い、カチカチと落ち着かなさそうな音を立てていた。

一見おとなしそうに見えるが、メガネの奥に見える小さな瞳がどこか危うく繊細な印象を受けた。このまま目を離せば、ふっと消えてしまいそうな気がする。

「どうしたの」

いてもたってもいられず、声をかけた。
やっぱり私は損するほどお人よしで、昔からこういうのは放っておけないのだ。

「英語の中間テストの結果が悪くて。お母さんに怒られちゃうのが怖いから、家に帰りたくない…」

彼女は、消え入りそうな声で、平均点65点のテストで48点しか取れなかったことを口にした。自分なりに頑張ったが、うまくいかなかったこと。国語の成績はいつも通り良かったけれど、そんなのもう当たり前だからお母さんは褒めてくれないのだと教えてくれた。また殴られたり、叩かれたりするかも、と血が出そうなほど唇をかみしめている。

「あほやなぁ」

私はまたそう口にしていた。

もう終わったことはしょうがない。
確かに気難しいお母さんかもしれないけれど、正直に話せばきっとわかってくれるよ。成績の良かった国語の結果は、英語の後に見せたら喜ばれるかもね。ちょっとずるいけど。

閉館間際の図書館に、ゆったりと蛍の光が流れ出す。

それを合図に、彼女は諦めるようにひとつ大きなため息を吐いて歩き出した。私はその背中を見送ることしかできない。

頑張ってね。小さくつぶやくと、彼女が振り向いたような気がした。




あの駅を利用するたび、あの図書館へ行くたび。私は繰り返し彼女達に出会う。女の子は、最寄り駅のコンビニにも、火曜日に卵が安いスーパーにも、私の実家のリビングにもよく現れる。

嗚咽が漏れるほど泣いていたり、ぺこぺこと謝っていたり、たまににこにこしたり。いつも申し訳なさそうに生きている、教室では静かなあの子。実はよく笑う。本当は面白いことが大好きだからだ。私は、それを誰よりも知っている。


そうだ、あれは全部過去の私だ。

私にしか見えない、過去の私の幽霊たち。


この前、辞めた日ぶりに雑貨屋へ行ったよ。店長も他の人も「久々だね」って、すごく喜んでくれたよ。あの日のこと、もう全然怒ってなかったよ。
あの日、帰ってお母さんにテストを見せたけど、意外と怒らなかったよ。
お母さんはもう私を叩かないし、今は結構仲が良いのよ。楽しみにしててね。


取り返しのつかない失敗をしたと感じたあの時、人生の谷で闇の中を歩いている夜のこと。振り返ってみれば、「あほやなぁ」と思えるほどに小さく、美しく、きらきらと輝いて見える。


その景色を眺める楽しさが、私の生きる理由の一つかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?