せせこましい富山で思うこと

富山県と言うか、富山県民のリアルがこの歴史的な有事で浮き彫になってくる。何がどうなっても自分の身内に事が及ばない限りは、他人事なのは富山県民特有な事かもしれない。幸せやら住みやすいやらと、自殺者数が折り合わないのも土着な村意識が抜けない富山なのだろうし、弱者には容赦無いけど、目上には過度に顔色を伺い、卑下な行動しか取れないのは、市長や知事を見ていれば明確。富山はテレワークだの何だのが先ずは適さない県でもある。一つ何円、共すれば何銭の世界で物を作りその勤勉さだけでやってきた県。目の前の事には対応できるが、それだけ…。僕は身体を動かす事が好きでトライアスロンでもウルトラマラソンでもトレイルランニングでも楽しければ何でもごされなんだけど、富山県でコロナウイルスの感染者が不幸にも出てから、どうなるかと思っていたら、その後の民度の低さに驚きしか無いしそれは今となっては呆れるしかありません。冴えない顔を晒すのに不要不急なランニングをして、人の生活と外れた時間にやってやったと、マスクを外してSNSにあげたり、訳の分かんない時間に走っては、公共の子供も触る公園の遊具に触り訳の分かんないポーズでイキッてみたり。そんなんSNSで脳足りんな奴らのいいねが欲しいのがランの一義だとしか思えない。不要不急の外出について「どうか」など、今まで以上の接続詞がついた。それ以前にも「分かるでしょ?」って感じで、日本らしい形で奥ゆかしく求めている事を、田舎の富山では全く違う形で捉えているから、他県より遅く感染者が出ても、他県より早いペースで感染者は出てはいけないとこから急速に増えている。情けない話だし、正直こんな県民性に巻き込まれたくも無い。どんなお洒落なウェアを着ても、速いペースで走っても、例え人のいない時間と場所で走っているとしても、その先の連想力や発想力がないのが悲しい。