言葉を、超えて。
数ヶ月前に、尊敬する方からとても印象に残る話を聞いた。
その方は、人を森に誘うことを生業にされている。この方と一緒にいると、なぜかとにかく不思議なことが起こる。いろんな出会いが起こるし、場が深まっていくし、何より自分の中でとても大切な部分に触れている感覚になる。
その方に、人生相談をさせて頂いたことがあった。その会話のどこかで、こんな話があった。
深い対話のとき、彼はいつも目を閉じて人の話を聴いている。とても深く聴いてもらっている感覚があるのだけど、そこの内容(コンテンツ)には意識をおいていないらしい。
どういうことだ、と思っていた。僕はこの内容(コンテンツ)にとても意識を払って話すし、書くし、聴く。特に、相手の話を深く聴きたいときは、微細な言葉違い一つも感じ取れるようにしている。
でも最近行った対談でもそうだし、詩を読んだときもだし、よもや書いている文字を超えて、「言葉の奥にある、◯◯」をずっと感じていました、というフィードバックをいただくことが増えてきた。むしろ、聞き手の方から、言葉を超えたところに何があるのかじっくり聴きたいです、とそれを期待して聴き始める方も出てきた。
内容(コンテンツ)に意識を払いがちだけれど、人はその奥の何かを感じとる感性がとても高いのかもしれない。そう、ここまで考えてたとき、ふと、「何を創り出したいのか」という問いが形を変えてあらわれた。
それは、
だ。
どこの意識とは、Whereに関する問いであり、何を創り出したいのかは、Whatに対する問い。なお、Where というとすぐに過去の体験が、とお話する人がいるがそういう意味ではない。過去のどこという意味ではなく、この瞬間の意識のどこから、という意味だ。
そしてそれを人は無意識に受け取ってしまう。だから創造行為においても、Where に関する問いと、What に関する問い、どちらか一方ではなく、双方を持つことが大事なのかもしれない。そんなことを考えた、朝だった。
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