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不安に襲われてしまったとき

不安に襲われるときがある。

ときに自分を恨む。なんでこんな選択をしてしまったんだろう。本当は自分の甘えじゃないか。やりたいこと、という言葉を使って、やりたくないことを避けてきただけじゃないか。

そう、ときに自分を恨む。そのたびに、自分に問いかけることにしている。いつも、同じ問いだ。

「いま、僕を通して顕れたがっているものは何か。」
「いま、世界は僕に何をして欲しがっているのか。」

深呼吸をする。意識を頭から心に向ける。そして、この問いを自分に問いかける。すると、ふと、時間が止まったような感覚になる。日常的にある不安、懸念、恐れ、そういったものが意識から消えていく。いや、消えているのではなくて、ずっとそれはあるのだけれども、意識の焦点が他のところに移るといったほうがいいかもしれない。

そして、最近の出会い、自分に起きたこと、起きてしまったこと、これから起きようとしていることが、一気に頭の中を駆け巡る。それらを、現象として観察したあと、やっぱり僕はこれをやらなければいけないんだな、僕はこれをやるということを選んでいるし、選ばれているんだな、そういう感覚になる。

人生を喜びから生きよう、という言葉がある。僕自身、喜びから生きる、ということはとても大切にしていることでもある。でも、喜びから生きる、というのは、喜びしかない、という意味ではない。瞬間瞬間の悲しみ、怒り、葛藤、嘆き、そういったことを体験した分だけ、喜びも大きくなる。不安な中でも、一歩踏み出すことができた、歩み続けることができた、ということが自分への自信になるし、勇気になる。その勇気がまた次の一歩を歩ませてくれる。

話は戻る。不安になったとしても、不安に取り込まれないように、不安から動かないように、不安から意思決定をしないようにしている。

「いま、僕を通して顕れたがっているものは何か。」
「いま、世界は僕に何をして欲しがっているのか。」

この問いに対する答えを、頭だけではなく、身体全身に問いかける。足に、手に、胸に、首に、腰に、お尻に。細胞ひとつひとつに問いかける。そして、何かの答えらしき景色が見えてきた後、その景色に身体全体が反応したら。その顕れたがっているものを見たい、やっぱりその景色を見たい、見なきゃいけないんだ。

そうなったときに、世界が僕に求めていること、やらねばならないことと、やりたいことはイコールになる。勇気を持って、一歩、一歩踏み出し続けることができたら、きっと見たい世界が自分の目の前に顕れるんだろうなと思う。その瞬間を見れることを、強く祈りながら、今日も生きる。

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