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子供の天才性と、親ばかの構造

僕には、もうすぐ3歳になる息子がいる。

溺愛しているし、可愛くてしょうがない。毎日、「生まれてくれて有難うね−。」とか、「パパもママも◯くんのこと、大好きだよ。」と声をかけている。

いわゆる、親ばかである。昔は親ばかが理解できなかった。盲目的になっているし、子供を特別に思うために、進化の過程で育まれてきた感情なのだろうな、位に思っていた。

でも親になって思うのは、本当に子供は凄いということ。昨日まで歩けなかったのに歩けるようになったり。急に怖いといっていたことができるようになったり、新しい言葉も話せるようになったりする。この、誰も教えていないのに出来るようになる日々に、驚く毎日だ。

一旦、親ばかを、「自分の子供は特別であり、天才性を持っていると信じていること。」と定義する。この定義で言うならば、僕は間違いなく、親ばかにあてはまる。多くの親も、"天才性" という言葉で認知しているかは別として、この定義に当てはまると思う。

ふと、この親ばかになる構造について思い浮かんだ。

第一に、恐らく、親は、「子供の "成長率" の、圧倒的な高さ」に驚いているのではないか。上で書いたように、昨日出来なかったこと、さっきまで出来なかったことが、誰も教えなくても急にできてしまう。

ポイントは、この "成長率" を今の自分(親自身)と比較して認知しているこことにある。「今の自分ではこんなことできないのに、息子 / 娘は…」と、年齢を重ねた自分との比較の中で、子供の天才性を認識する。

第二に、子供の圧倒的な好奇心と、始めたら飽きるまで絶対にやめない、没頭精神だ。精神だ、というとかっこいいが、親としては、早く今やっていることをやめて、予定通り(保育園に行くとか)のことをしてほしいが、今の欲求にもう信じられないほどに忠実なのだ。

大人であればそれは、狂気的、と呼ばれるほどであろうし、天才がよく持っている特徴に見える。一つのことに没入すると、他のことが見えなくなる、時間を忘れてしまう、恐ろしいまでの集中力。これらの特徴を、子供は当たり前のように備えている。

この意味において、やはり、子供は、(大人と比較すると)天才なのだ。

しかし、である。親ばかはある時に終わりを告げる。それは、比較の対象が(無意識のうちに)自分という年齢を重ねた存在から、周りの人との比較になった瞬間ではないか。

小学生くらいになると、あの子たちと比較してサッカーがうまい、頭がいい、優秀だ、と集団の中で秀でている部分がある場合にのみ、天才だ、神童だ、と言われるようになる。天才性は、他者との比較の中で認知されるものなのだろう。

これまでの内容を振り返ると、親ばかとは、年齢を重ねた自身と比較し、天才が抱えている特徴を子供が有していることから(成長率の高さと、没入精神)、天才性の認知が始まり、周囲との比較により、天才性の認知は終わりを告げる、と言えるのかもしれない。

一親として思うのは、他者との比較は、生きていれば自然と晒されてしまうから、息子の中に内在する、強烈な好奇心、関心、そこでの瞬間瞬間の試行錯誤と、結果としての成長、そこのみに意識を持ち続けたいなと思う。

つまり、どうどうと親バカとして、他者との比較がどうであれ、息子の天才性を信じ続けられる自分でいたい。

そんなことを思った朝だった。

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芸術のげの字も知らなかった素人が、芸術家として生きることを決めてから過ごす日々。詩を書いたり、創作プロセスについての気付きを書いたり、生々…

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