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鏡の中のシンデレラを救えるか?/ラストナイトinソーホの考察

「おもてたんと違う」

ドアが開き、ドレスを着た女性が踊りながら暗い部屋の中に入ってくる。光は背後から射してるから、シルエットしかわからない。でも高そうなドレスを着ているように見える。電気がつく。するとドレスは新聞紙、部屋は田舎の少女の自室だとわかる。高いドレスでも、ドレスが似合う場所でもなかった。実際は想像と違った。何でも裏があるわけだね。

映画のポスターや看板が暗示する裏側の世界

エロイーズの部屋で最初に目を引くのが映画「ティファニーで朝食を」だと思う。この映画は、田舎出身の少女ホリーが都会のカフェでウェイトレスをしながら、来店した金持ちの男性と付き合い、豪華な生活をしたりする。このポスターは都会に憧れて田舎から出てきたエロイーズと、金持ちの男の愛人になってるサンディを表現しているんだね。

そして初めて夢の世界を訪れたエロイーズの前に現れるのは007/サンダーボール作戦の看板。これが上映中ってことは1965年って事を表してるんだけど、それだけじゃなくて、007ジェームズ・ボンドは男性至上主義の代表で、この世界が男性社会であることもこの看板だけで教えてくれる。
他の映画のパロディやオマージュを盛り込む監督エドガー・ライトはさらに007ネタを詰め込んでくる。
サンディが頼むのはボンドガールの名前からとられたヴェスパーというカクテル。年老いたサンディを演じたダイアナ・リグは別の007作品でボンドガールを演じている。オマージュの特盛だね。
昔のボンドガールは男性に振り回されることが多い。サンディのこれからを暗示してるようにも思える。
最初は素敵に見えた60年代も色々な所で暗い側面を覗かせていたんだね。
でも、エロイーズは「古き良き時代」だと信じて疑わない。

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誰にとっての「良き時代」なのか

特定の時代に憧れ、その時代を体験すると言えば、ウディ・アレン監督の「ミッドナイト in パリ」を思い出す。
この映画では1920年代のパリに憧れる現代人が、深夜12時にタクシーに乗って1920年代にタイムスリップする物語だ。当然、「1920年代最高!おしまい」とはいかない。

「ラストナイト in ソーホー」のエロイーズも午後8時にベッド入り、サンディを通して、1960年代を体験する。そこで、好きだった60年代の本質を知る。

漫画の「バガボンド」でこんなセリフがある。
「勝者の物語だけが語られる」
誰だって自分良く見せたいから良いとこだけ語る。死人に口なしだし、社会的弱者の言い分は軽視される。過去が美化されるのは、勝者が弱者を食い物にして後ろ暗いところは隠してしまうからなんだね。では食い物にされないためにはどうすればいいのか。

亀の甲より年の劫

エロイーズは夢でサンディの過去を見る。要は他人に共感する力を強く持っていて、その力で語られなかった人々の物語を観ることができた。でもその力は、過去は変えられないし、自分の窮状は救えない。苦しんでるけど、言い難いことも多い。これは僕らでもよくあることだ。

エロイーズと祖母はよく電話する。電話口で心配する祖母にエロイーズは嘘をつき安心させようとする。老人を疑う。警察は信じてないと決めつける。僕らも似たようなことをやってるよね。親、上司、教師の心配や注意を邪険にする。でもすべてを無下にするのは間違いだ。だって彼らは経験豊富だから。
祖母は電話口で「あなたは正しいことをしている」と言う。これは自分に連絡してきた事を言ってる。困った時は誰かに相談するのが一番だ。それがどんなに言い難いことであっても。今は相談できる場所が多い。いいことばかりじゃないけど、ネットだってその一部だ。勝者じゃなくても、聞く価値、頼る価値は十分にある。


俺の屍を越えてゆけ

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そういう名前のゲームがある。簡単に言うと、鬼に呪われた人間が、一族で世代を重ねながら研鑽を積み、呪いをかけた鬼を退治する話なんだ。

サンディも母も、ロンドンに殺されてしまった。過去は変えられない。でも、エロイーズは彼女らの経験を糧にして、まさに屍を越えて窮状を脱し、夢をかなえた。この夢っていうのは、勝者でない人が搾取されない世界だと思う。田舎から出てきて、周りになじめず、居場所もお金もない女の子が、敗者にならなくてすむ世界。自分の才能を発揮できる世界。1960年代では夢物語だったのが、少しずつだけど、現実になりつつある。
老いたサンディや彼女に殺された男の怨念が壁から染み出し、エロイーズの現実を侵食したように、祖母や、鏡から見守る母や若き日のサンディの思いが夢を現実にしつつある。僕らの現実もそうなっていければいいね。


イギリス版タランティーノ、エドガー・ライト

長々と考察をニチャったけど、彼の作品って、もっと感覚だけで楽しんでもいいと思う。タランティーノもエドガー・ライトも、自分の映画の中にオマージュを詰め込むのが好きだ。
タランティーノは「自分の映画はサンプリングで作られている」って言ってる。要は自分の「好き」を詰め込んでくるってことだと思うんだ。僕らも映画を語る時「あのシーン、あの曲、良かったよね」って言いがちだ。彼らはそういったものをつなぎ合わせて映画を作ってるんだから、素直に口を開けて「おぉ~」観てればいいんじゃないって思う。
最近のエドガーの場合は音楽を軸にして、自分の「好き」で映画を彩っている。前作のベイビードライバーでも母親の話をしている。そういうところを深堀りしても面白そうだけど、もう少し、彼の映画をカジュアルに楽しんでみたい。

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