「好き」の言語化

「言語化できなくてもやもやする」

こういった経験は誰しもあると思う。感動する映画、ゲーム、漫画。人生で一度きりと思えるような感動に出会ったとき、僕らはそれを言葉にして伝えたくなり、そのたびに言語化できないやるせなさに襲われる。

感動したときに誰かと共有したくなるのは人の知的な本能なのだろうか。

一種の承認欲求ともいえるのかもしれない。それとも、いい獲物をを見つけたり、砂漠のオアシスを仲間に知らせるような動物的な本能なのだろうか。
人間が本能的に求めている人との繋がりがこのような欲求で顕れるのかもしれない。

「言語化」という行為は、人に伝えられる形にするという役割と共に、「思考する」という意味合いもあると思う。僕たちが見ている世界は、言語によって認識・区別されており、見え方は言語に支配されていると言っても過言ではない。

では、「好き」を考えること、そこに理由を探すことに何の意味があるのだろうか。

ひとつ、自分という存在の解像度を上げることができる。自分でさえよくわからない自分という存在を、コトバによって客体化して実験対象として考察することが可能になる。
よく言われることだが、自分が活躍できる場所は「Can」「Will」「Must」が重なるところにあると言われる。Can, Must的アプローチはwillが蔑ろにされる可能性があり、辛く険しい道になる可能性が高い。
「好き」の言語化はwill、つまり自分が進むべき道を示す羅針盤になりうる行為なのだ。

そして、何かを好きになるのは「他とは違いAだから」であり、掘り下げることによって言語的な世界観の上に自分だけのレイヤーを構築することにもつながるだろう。そのプロセス自体がまるで考古学のように、謎めいた存在の謎を解き明かしていく過程であり、楽しいものなのだろう。

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話を戻して、言語化するにはどうすればよいか。

1つ思ったのは、他の好きなモノとの共通点を見つけること。つまり、新たに好きなものに出会ったときに既存の好きなもので例えること。やってみてわかるが、言語化するよりもだいぶ簡単だ。敷居も低くて意外と楽しい。

デッサンにおいて細かい線で輪郭を作るように、似たものを用意してその共通点を見つけるのがよいかもしれない。





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