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サイコーな体験

久しぶりに劇を見てきた。
たった3人の俳優で多くの役を演じ、時代や国も次々と変わっていくような、素人目に見てもとても演じるのが難しいと思える、そんな劇だった。

出演者は渡辺えり、小日向文世、のん、の3名。その他の方々を含めて、合計7名だった。
主催者は渡辺えりで、本劇を主宰するオフィス三〇〇を立ち上げて演劇活動を行っているらしい。小劇場ならではの雰囲気がとてもよかった。

以前劇を見たのは、おそらく中学生のころ。当時、堀北真希が大好きで学校の2学期の終業式を欠席して大阪まで見に行った。
会場も人数も大規模で、中学生ながらにその雰囲気に圧倒されたことを今でも覚えている。

そこで感じた厳かでひんやり冷たいような雰囲気とは違い、劇中に各々が笑うような、各々がリアクションしてしまうような、そんな暖かい雰囲気の中今回の劇は行われていた。批評などもではなく、みながまるで家族のように暖かく、なんでも受け入れるような雰囲気があった。

今回の劇のテーマは平和。
劇中で直接的に表現されてはいないが、メタファーとしては含まれているように思う。受け継がれる魂、風刺的で皮肉のこもった緻密な台詞、直接的ではなくとも平和につながるような、ある種の感情を観劇しただれもが感じていただろうと思う。
また原作も読んでみるつもりだ。

小日向文世は変幻自在で、彼次第で雰囲気ががらっと変わったように感じた。コミカル、シリアス、どちらの場面でもなぜか映えて見えて、なにが実体なのかわからなくなるほど。のんは、中性的な風貌で何にでもなりきり、表情と声色の使い分けで完全に役を自分のものにしていた。渡辺えりのパワフルで快活な演技を見ているだけで、見ているこちらは元気を貰えた気がした。

最近、映画さえ劇場にあまり行かなくなった。どうしても見たい作品があればいくが、今では人生かけても観切れないほどの作品をブラウザ1tつ立ち上がれば好きなだけ見ることができる。
このような「体験の簡素化、矮小化」のような変化は、さまざまな分野で進んでいると思う。例えば、youtubeの解説動画やVR体験などもそう。

テクノロジーの進化で確かに僕たちの生活は便利になったが、人生の豊かさとはまた別の話。
手順や体験の簡素化によって失われたものはないだろうか?
振り返ると、サイコー、めっちゃ楽しい、などよりも、まぁまぁ楽しい、なんとなく満たされている、嫌なことをさけられた、こういった感情の割合が増えているような気がしている。

まあ多分恵まれているからこその悩み、だと思うが。
内容が発散しそうなのでこの辺はまた別記事で書こうと思う。

話を戻すが、観劇した感じたこれらのことは決してモニターでは感じられなかったと思う。
ミスが許されないなかで複雑に進んでいく演劇が生む緊張感、具体的には演者が出す緊張感、真剣度のようなものが観客を飲み込んでいく。

俳優にとって演劇をすることの価値がどこにあるのかはわからないが、
素人目では、この形式は「俳優業にかける本気度」を最も感じられるものだと思う。
それは、単純に難易度が高いことに加えて、演劇は商業的には成功しにくいのでは、と思うから。リアルで埋められる箱には物理的限界があるし、空間を縦横無尽に使う演出もあいまって、自分で視点を動かせない配信形式とも相性が悪い。

今回演じられてた俳優たち、みなさんがとても素敵に見えた。少しおおげさな言い方になるが、ネガティブな雰囲気が漂っていて手軽な小金稼ぎにはしる人が多いこの日本で、ひいてはお金が幅を利かせるこの資本主義において、自分なりの尺度で豊かな人生を生身で演じている方々なのだろう、と思えた。

僕は特に のん の演技に注目して見ていた。同学年の俳優がどのような演技しているのか、挫折もあったであろう芸能活動の中で何をどのように表現したいのか、なぜ演じるにか、について個人的に気になっていたから。
彼女の本気の演技を見て、僕は感化された。

自分の生き方を改めて見つめなおして考える機会を与えられたように感じた。人生をかけて取り組んでいるものは美しく、力強い。

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今回は「サイコー」な体験ができた。



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