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「浅く広く」は馴染まない

私は本が好きだが、ほとんど小説を買わない。

なぜかというと、どうしても読むのに時間がかかるからだ。さらに言えば、他のメディア(例えば映画)に比べて五感への刺激が弱いため、「この感動もすぐ忘れてしまうのかな」と不安になってしまう。

そんな私はいつも実用書や学問の本を買う。

例えば最近だと、『電気と磁気の歴史』や『The Brain Bible』といった本を買った。気になることを知らずにはいられない性分なので、分野は関係なく雑多に多領域をつまみ食いしている。

本屋やAmazonで本を選んでいると、たまに『なんとか辞典/ 図鑑』のようなタイトルの本を見かける。

私は網羅性の高い本が好きなのでつい買ってしまうのだが、読み込んで記憶に深く残った記憶が無い。

読み始めてすぐは、すらすら読み進めることができるため気持ちよく、とても満足感が高い。しかし、そこから1週間、2週間経つとその読んだ本の記憶は彼方へ消え去っている。もしくは、私の海馬の死角にすっかりと隠れてしまっている。

このような体験は1度ではなく、毎度のことである。

なぜこのような結果になるのか私は考えた。

そもそも、この覚えていないという現状を「結果」と認識することを止めれば良いという話はあるが、それはひとまず置いておこう。

しかし、それがプロセスだとしても再度図鑑本に手が伸びることはほとんどない。つまり、結果的には同じと言っても大きな間違いではない。

なぜ「広く浅く」は馴染まないのか。

ひとつ、図鑑ものを買うような人の心理を考えてみると容易にわかるが、そのような人は明確な目的を持っていないことが想像できる。手にとった本に何か明確な答えを求めている人、読んだ瞬間から行動を変えたいと思っている人は、図鑑本を消して手にしないだろう。ざっくりその分野に興味がある人が買うのである。

ひとつ、自走に到るまで興味が浮力を受けないのではないかと思う。図鑑ものは内容が浅い分、つまみ食いしている分野はとても広い。いや、広すぎるといっても良いかもしれない。図鑑本にしてもれば、数億年も数百年も変わらず、ただ淡々と事実が並列に陳列されているだけにすぎない。

3次元空間で常に時間の流れに沿って生きる人間にとって、そこには何もない。私の知覚はは1/6しか稼働せず、自分の脳味噌がせいぜい頑張って定格10%の能力で働いていたとしても、海馬は何も興味を示さないだろう。

ひとつ、表面的な知識はすでにネットで得ていることもあるだろう。「本は主食、ネットはおかず」とどこかの誰かが言っていたが、それでいうと図鑑ものはおかずに近い主食といったところか。例えば、「おはぎ」のようなものだ。


ここまで述べてきて恐縮だが、図鑑ものにももちろん良い面もある。内容が(浅いが)網羅的であるため、『棚からぼたもち』的な出会いもある点である。

お腹がすいたのでご飯を食べよう。

気が向いたら追記しよう。


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