post-truth時代へ

「何を言うか」よりも「どう言うか」のほうが問題だ。むしろ、どう語るかが決まれば、何を語るのかは自ずと決まることになる。  普通、私たちは、何を語るかを考え、どう語るかを考えます。しかし、ソクラテスは別な道を行くのです。どう語るかは、何を語るかに勝るとも劣らない問題だというのが彼の確信でした。  現代では学説や見解など、何を言うかに重きを置きます。ですが、それらの多くは要約できるものです。要約できるとは、誰が読んでも同じ内容が読み取れるということでもあります。  一方、どう言うか、ということは、要約ができません。つまりその人の「語り口」は要約できない、置き換えが不可能なものです。そういった、要約したり代替したりすることができないものの中に、「ほんとう」のことを見出していくことが大事なのだと、ソクラテスは考えているのです。

『大人のための哲学入門』

小さい頃、大人の言うことはたいてい正しいと思っていた。親や学校の先生の言うことは正しくて、僕を正しいところに導いてくれるものとさえ思っていたかもしれない。
中学・高校と、様々な分野の知識が少しずつ蓄えられて、自分で考えられるようになったとき、大人はいつも正しいこというわけではないことに気が付く。大人であっても、人によって考え方が大きく違っていて、語る内容も違ってくる。僕は、「何を言うか」が重要だと気づいた。

「何を言うかが重要である」という命題は、たいていの場合正しい。実際に行動するほうが大切である、という相対的にその優先度が落とされる場合はあるが、上位の命題と矛盾するものではない。

この原理を抱えたまま20代後半まで来たが、最近では「どう語るか」「どう伝えるか」の重要度が上がってきているように感じる。
インターネットの普及により情報伝達だけでなく、その消費・飽きの速度も圧倒的に変わっている。裏付けのとれた正しい知識を入手するのは簡単であり、もはやその重要度が下がってしまった。一方で、他人の感情や行動にどれだけ訴えられるか、という「どう伝えるか」の重要度が上がってきた。
このような傾向はすでに世界の共通認識となりつつあり、「post-truth」と呼ばれる。

post-truth;
「世論の形成において、客観的な事実よりも、感情や個人的な概念に訴えるほうが影響力がある」状況を表す

https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-144-17-05-g551

このような時代の変遷を、冒頭の言葉はうまく表していると思う。
たしかに少し前までは何かを要約するというムーブが盛んだったように感じる。本の要約動画(ビジネス系だとサラタメのように)やflyer、摘発されているがショート映画という映画の要約チャンネルさえも注目を集めていた。「〇〇3選」「〇〇ランキング」など短く個人的意見を伝える動画が増えているのも、post-truthの延長トレンドのように思う。

個人的には、post-trhth時代は好きではない。知識もなにもない人達が「バズるために」根拠のない情報を拡散するのほとんどが意味ないからである。ただし、エンタメ的な文脈では良い時代だとは思う。

いずれ「what」が重視される時代への揺り戻しが来ると思うが、それまではpost-teuthに身を任せるのもよいかもしれない。

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